記憶って一瞬じゃない?たとえば、音とか匂いとか。感じた瞬間に記憶に結びつくの。
もうずっと昔のことで思い出すこともなかったのに、その音を聴いた途端に思い出す。
それが酷く、…なんていうのかなあ。寂しいとか、悲しいとか、マイナスの感情じゃないんだけど、それに近い。
どうしようもなく泣きたくなって、どうしようもなく、苦しい。
胸の奥がね、なんだかすごく熱くなるの。湧き上がってくるの。 おかしいよね。私、リセットされちゃうからなんにもない筈なのに。
だけどどうしてかな。今すごく、泣きたいよ。



花紡ぎ
HANATSUMUGI



零れていく言葉の一つ一つが涙のようだった。


「ねえ、きみは白詰草の花言葉を知っている?」


浮かべた笑みはそのままに彼女はこてりと小首を傾げて俺に問う。
いつの間にか口の中がからからに渇いていた俺は、声を出そうとしても上手く音にならなくて、


「…、……わ、たしを、おもいだして」
「そう。私を思い出して、私を思って。それともう一つが、約束」


途切れ途切れの掠れた声を拾い上げてはわらう。
それから、胸の前で広げた両手をじっと見つめて、指を絡めるように閉じた。


「私はいつも、約束を編んでいたんだね。 …悲しくはないと思っていたけれど、心の底ではやっぱり寂しかったのかなあ。 忘れてしまうことが、ほんとうは嫌だったんだね」


―そう、そうだよ。思い出してほしかった。昨日の私を、リセットされる前の自分を。


…なんだ、これ……?
段々と大きくなる、空気を揺らさずに響く声。


私は私に思い出してほしかった。たとえ消えてしまっても、どこかに残していたかった。


それはまるで、散っていた花びらが元に戻るように、集まるように、
じくじくとうずく、じわりとにじむ


だって、ほんとうはなにひとつなくしたくなんてなかったから、だから、


「…やくそくしたの」―私を思い出して!


刹那、俺の身体を貫いた 声

こんなにも響いているのに少しも気持ち悪くなくて、それどころか、
――ああ、彼女の声はこんなにも、


わかくん


いとしい


「…今、」


彼女が俺を呼んだ。
はっとしてを見たけれど、何故だか目の前の顔がぼやけて見える。なんで?
慌てて焦点を合わせようとする俺に白く細い指先が伸びきて、それは俺の目の高さでゆっくりと横に流れた。
―まるで、硝子越しに俺の目許をなぞるように。


「やっと泣いたね、わかくん」
「、――え?」


瞬くと同時に頬を滑る、熱
指で触れれば冷たくて、でも、あたたかい、涙。


「…なに笑ってんだよ」


ぼやけた視界に映るは、口許に指をあててわらった。


「人のこと泣かせたんだから責任取れよな。てかいい加減開けろって」
「将来の為にもわかくんは待てを覚えた方が良さそうねえ」
「よしわかった、一発殴るから今すぐ開けろバカ…!」
「生憎進んで痛い思いをする趣味はないの」
「にゃろう、―!」


ちりっと、焦げるような感覚にの奥を睨む。
勝手に拾い上げちまった声には覚えがある。一度ここで会った、内側と外側が全然違う男。


「騒がしいと思えばまたあなたですか」


の一歩後ろで足を止めたそいつは俺を見ると困ったように息を吐く。
わかり易く苦笑を浮かべてるけど、お生憎様。普通じゃない俺相手にどれだけ見た目を取り繕っても意味がない。

気を緩めればあのときみてえに真っ黒い感情に引きずられるのはわかってるから今度は慎重に。
ちりちりと頭の中が焦げ付くような声に、俺はぎゅっと目を瞑った。


「……そうか、お前が」


手紙を処分したのも、鍵を掛けたのも、全部こいつだったんだ…!
痛む頭を押さえながら相変わらず高そうなスーツ姿の男を睨むけど、俺の異常さを知らないこいつはただ笑うだけで、


「何でしょう?」
「……」
「用件がないのでしたらお引き取り願えますか?さあさん、そろそろ出発の時間ですよ。戻りましょう」
「出発って、…どこに?」
「あなたには関係のないことです」
「ッ、」


ガンッ
思い切り扉を叩く。胸の奥でなにかが爆ぜた。


「……、ふざけんなよ」
「乱暴ですね。人を呼びますよ」
「シツコイガキダナジャマナンダヨサッサトキエロ」
「!、突然、なにを…?」
「 、」

「待って」

「わかくん、待って」
「っでも、こいつは…!」
「駄目だよ」


硝子の向こうのは強い瞳で俺を見る。

心は自分だけのもの。他人の心が聞こえてしまうのも、聞かれてしまうのも、どちらも心を壊すことに繋がってしまう。 そんなことは俺自身が一番良くわかっているのに、俺は――


「……ごめん、」
「うん。でもありがとう。私は大丈夫」


はふわりと笑って、それから異常なモノを見るような目で俺を見る男に向き直り、一つ二つ声を掛ける。
スーツの男は何か言い返したそうにしていたけれど結局口を噤んで去って行った。

硝子の向こうに一人残ったは、俺の目を真っ直ぐ見つめて静かに口を開く。


「私たち、人とは少し違っているよね。個性的って言葉で片付けるのは難しい」
「…うん」
「でもね、目を逸らさずに向き合えばきっと大丈夫だよ。上手に付き合っていけると思う。 私は私の心と、わかくんはわかくんの心と」
「……それでも、また間違えるかもしれない。逃げたくなることだって、きっとある」
「そうだね。私もまた忘れてしまうかもしれない。だけど何度でも思い出すよ。だって、」

「記憶はなくても私の心は一つだから」

「それに、たとえ私が私を見失ってしまってもわかくんは見つけてくれるでしょう?」
「―見つけるよ、必ず。俺にはの声が聞こえるから」
「……うん。それなら大丈夫だね。きっともう、大丈夫」
「…?」
「最後にわかくんに会えて良かった。思い出せて良かった」
「待てよ、…最後ってなに?そいやどっか行くって言ってたけど、でも、だって、折角…!」


縋るように伸ばした俺の手に、硝子一枚隔てたの手のひらが重なる。


「ねえわかくん、私ね、」


あなたに逢うために生まれてきたって思っても、いいかな



そして透き通る世界に眠る



頭の中に、身体に、心に、染み渡る 声
硝子越しのは泣きたくなるくらいやさしくわらった。



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