あの日、儚くも強い言葉を残して彼女は消えた。 硝子張りの温室を彩る花も消え、まるで最初から何もなかったように、彼女と過ごした日々を残すものはない。 そしてまた、彼女がいない季節は巡る。
花紡ぎ
HANATSUMUGI 「今日はこれまで。各自しっかり身体を休めて明日に備えるように」 「若菜最近調子良いじゃん」 「まあな」 「噂の彼女のお陰かー?」 「つーか結局誰が本命なわけ?」 「俺はやっぱ女子アナの…」 「いやいやグラビアの子だろ」 練習終りのロッカールームは時々こんな風にどうでもいい話が持ち上がる。 誰が誰を口説いてたとか、結婚しそうとか、他愛もない話ばかり。 「お前らはゴシップ好きの主婦か」 この手の話が俺に回って来るのはそう珍しくはなくて、お陰様で受け流すのも慣れたものだ。 てか今一度しか話したことないやつの名前出てきたんだけどどーいうこと? まあ、色々面倒だから好きにさせてる俺も俺なんだけど。週刊誌も暇だよなー。 「まーまー良いじゃん」 「で、結局のところどうなの?」 「こらこらこいつらに振んな」 いつも通り笑ってはぐらかす俺に飽きたのか、黙々と着替えていた一馬と英士にまで声が掛かる。 「どうも何も結人彼女いねえし」 「まじで!?」 「でも色んな噂あんじゃん!」 「所詮噂でしょ」 「合コンしまくりで手が早い若菜が女いねえとか…嘘だろ」 「そもそもそれが間違い」 「あ?」 「手が早いどころかかなり奥手だぜ?」 「おい待て俺のプライバシーはどこに消えた」 もうやだこいつら。 好き勝手言う親友やチームメイトに投げやりに息を落とせば、誰かが励ますように俺の肩を叩いた。 こうして気を抜いているときに触れられても、空気を揺らさない声が響くことはない。 あの頃俺を苦しめていた声は今はもう殆ど聞こえないのだ。 意識して閉じることを覚えてからは、聞こえたとしてもそれは囁きでしかなくて、 突然頭の中に入ってくる感情に侵されることも、花をたべるような感覚に塞がれて息ができなくなることもない。 未だに俺は、俺の異常さを家族や親友に話してはいない。 …もしかしたら何かしら気づかれていたかもしんねえけど、今後俺から話すつもりもない。 バタンとロッカーを閉めて既に着替えを終わっていた親友たちを見る。 「今日飯どうする?昼間っから居酒屋でもいっけど」 「ねえよ。俺帰ってイメトレしてえし」 「結人に付き合って無駄な体力を消耗するのはご免だよ」 「冗談だっつーの。じゃあ肉食おうぜ肉!」 「この前も行かなかった?」 「仕方ないよ一馬、結人はワンパターンだから」 「お前らなあ…!」 歳を重ねても変わらないやり取りにそれぞれぎゃいぎゃい言いながら練習場を出れば、 差し入れを渡そうと待っていた数人のファンの子たちに声を掛けられて足を止めるのもよくあることだ。 「さっきのシュート素敵でした!」 「サイン書いてもらえますか?」 「これ良かったら食べてください」 「ん、ありがとな」 英士も一馬もファンサービスがなってねえから、この面子だと自然と俺に掛かる声が多くなる。 「若菜選手」 さて、今度はなんだ? 笑顔のまま振り向くと、ひらりと揺れる白が太陽に反射して、俺は思わず目を瞑った。 わかくん 風にさらわれそうな囁きにぴくりと指先が動く。 俺の中に入り込んだ静かな声は、やがてじわじわと色付いて鮮やかに俺を染める。 ゆっくりと瞼を持ち上げれば差し出される花冠 白いワンピースを纏った彼女はふわり、やわらかくわらって、 「これ、もらってくれますか?」
白く細い手首を掴んでそっと抱き寄せる。 重なった声も、触れた温度も、確かにのものだから―― また二人、出逢うことから始めよう。 願わくばもう二度と手放すことのないように。 儚く強い、俺だけの、花 12 | top |