「なにか」を憶える代わりに消える「なにか」を選べるのなら良かったのに。
だって、記憶と引き換えに詰め込まれた知識が彼女の中から消えてしまっても、彼女にとっては不都合はないんだ。
自分の記憶が自分のものではないってどんな感じなんだろう。
考えても考えても、俺にはわからない。わかれない。
だけど一つだけわかるのは、感情や表情が欠けていく彼女を見ているのは、すごく



花紡ぎ
HANATSUMUGI



…ああ、そうか。苦しかったんだ。
掴んだ腕から流れてくる設楽の声は痛くて、痛くて、まるで泣いてるみたい。


俺のこと知ってんの?
憶えてるの。だけど憶えているのは顔だけ。それ以外は出てこないわ。
…でもお前、そしたら何か消えるんだろ……?
そうねえ。だけどきみが気にすることはないんだよ。これは昨日の私が決めたことだもの。

忘れたくないなって思ったの。今も思ってる。だって、きっときみは私の世界に罅を入れた人だから。

ねえ、今日の私にもきみの名前を教えてくれる?大丈夫。今度は明日も憶えてるように頑張るよ。


設楽の中に残ったの声が残像のように俺の脳を焼いては消えた。
俺はゆっくりと指を解いて、掴んでいた腕を放す。


「もっかい訊く。お前なんであそこにいたの?」
「…さあ、なんでだろうな」
「会いたかったんじゃねえの。もう一度、に」
「今のあいつの中に俺はいないのに?現に消えてたし。俺のことなんかとっくに上書きされてたよ」
「……」
「……はいはい降参します。だからあんま見んな。俺の顔面に穴開ける気かよ」


設楽は一度面倒くさそうに息を落として、それから通り過ぎて行く人を眺める。
でも多分、あの目に映っているのは、今あいつが見ているのは――


「……待ってたのかも、多分。を連れ出してくれる誰かを」


ぽつり、呟かれた言葉。
言葉にすることで答えを探しているような口振りで、設楽は淡々と言葉を繋ぐ。


「あいつの世界は罅を入れるくらいじゃ変わらない。すぐに元に戻っちまう。だからいっそ、壊して、あそこから引っ張り出すくらいしねえと届かない」
「あそこって…、」
「温室。家だと監視みたいなやつが付いてるだろうけど、あの硝子張りの温室には以外のやつが来ることは殆どない。―気づいてた?あいつ、自分から出ようとはしないんだ。鍵は内側からなら簡単に開けられんのに」
「…設楽じゃ駄目なの?」
「無理。俺そんな度胸ないもん」


かちりとぶつかった目にはもう濁りはない。


「俺はもうあいつから何も奪いたくない。怖いから。でも若菜、お前がどうするかはお前が決めればいい」
「…急に態度変えんのな」
「まあね。―わかったんだろ?白詰草の花言葉」


頑張れよ

静かに響いた声はやがてしゅるりと溶けた。



+



走って、走って、夢中で走って、
まるで初めてあの場所に入り込んだときみたいに、ただただ走る。
だけどあのときと違うのは、俺が逃げる為に走っているんじゃないということ。
逃げるんじゃない。向き合いたいんだ。

俺は俺の異常さから散々逃げ続けていたから、いつの間にか逃げ癖が付いていたんだと思う。

諦めるのは楽だった。流されるのは楽だった。わらっているのは、楽だった。
でも嫌なんだ。。俺は、お前と一緒に過ごした時間がなかったことになるのは嫌だ。
我儘だけど、後先考えてないけど、それでも、


ッ…!」


勢いを殺さずに掴んだドアノブはカチッと音を立てるだけで回ることはない。
やっぱり鍵が掛かっている。だけどこの中にいる筈なんだ。…いなかったら、どうしよう。


「大丈夫」


過った不安を消すように呟いて目を閉じる。
静かに呼吸を繰り返しながら思い浮かべるのは彼女の声
耳を澄ませて、身体中を鼓膜にするみたいにたった一人の声を手繰る。――いた!


っ、ちくしょ、気づけ…!」


声を張り上げて硝子の扉に何度も拳を叩き付ける。
ガン、ガン、繰り返し響く鈍い音と同じ数だけ痛みを感じるけど今はそんなん構ってられない。
届いてくれ。お願いだから、届いて、とどけ―


「どうしたの?」
!」
「…きみは、今日より前の私を知っているのね」


ふわりと揺れた声。不思議そうに俺を見る顔。
振り上げた拳を開いて扉に張り付くようにして彼女の名前を呼べば、一拍置いて小さくわらった。
…あれ、なんだ?何か違う。
微かに抱いた違和感に眉を寄せそうになったけど、それよりも今は話すことがあるんだと意識を逸らす。


「知ってるよ、昨日もその前も。…俺、若菜結人。の花冠の先生」


硝子越しの彼女から目を逸らさずに、急かされるように言葉を紡ぐ。
初めて会ったとき、死んでるのかと思ったと言われたこと、一緒に花冠を作ったこと、 誰にも言えない秘密を打ち明けたこと、課題を解いてもらったこと、 昨日のに、酷いことを言ったこと。


「ごめん。八つ当たりした。ほんとにごめん」
「……きみは、今日の私がそのことを忘れているって知っているのに謝りに来てくれたの?」
「…ごめん」
「ありがとう。でもね、私はきみのことを知らないの。だからもう気にしないで」
「でも俺、」
「用はそれだけ?私もう戻らなくちゃ。会いに来てくれてありがとう。ばいばい」


わらっているのに、どこか突き放すような言い方。
…そうだ、さっきだって、困ってるとはまた違うけど、苦しいとか痛いとか、とにかく何か変だった。


「またねって言ったんだ!」


踵を返そうとしたに慌てて声を投げる。
よくわかんねえけど、このまま別れたら駄目だと思った。今彼女を行かせたら絶対駄目だ。

ぴたりと動きを止めたは、俺を見ると少しだけ眉を寄せた。


「……私が、きみに?」
「そうだよ。俺が普通じゃないから聞こえた。口にはしなかったけど、でも確かに言ったんだ、またねって」
「…」
「なあ、ここ開けてくれよ。花冠、一人じゃ作れねえだろ?」


硝子一枚が酷く遠い。見えるのに触れられない。温度を感じることができない。
乞うような視線でじっと彼女を見つめれば、やがて小さく動いた唇がぽとり、囁く。


「――記憶って、一瞬じゃない?」



ひらり、おちる



もしもほんとうに俺がの世界に罅を入れることができたなら、それを彼女が望んでいたのなら、
俺はこのまま、砕けて飛び散った破片に突き刺されてもいいと思ったんだ。

だって、俺の世界に罅を入れたのも彼女だから。



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