何この静けさ、まるで天使が通ったみたい。……実際は通ったというか、目の前にいるんだけどね。 after world
それはあまりに突然だった。何だか妙な気配を感じ慌てて瞼を押し上げると、目の前には何とも不機嫌そうな可愛らしい少年の顔 近い近い近い!サービス精神旺盛なドアップに椅子から転げ落ちそうにはならなかったけど、ぎょっとしたのは確かだ。 噂をすれば影ってほんとだったんですね。なんてのんびり考えてる暇はなさそうだけど、 「何考えてんの」 「難しいことはあまり」 「そんなのわかってるよ。どういうつもりかって言ってんの!」 やばいと思って耳を塞ぐよりも早く、耳を劈くような怒声が鼓膜を激しく揺らす。 苦肉の策として目を閉じてみたが効果は薄く、びくりと肩が強張った。何この恐怖体験。 本当は嫌だけどこのままでは埒が明かないため覚悟を決めて恐々開いた両の目に映るのは想像以上の怖い顔 これは非常に拙い。ご機嫌斜めなんて可愛らしい言葉では片付けられなそうだ。 「どういうと言われましても、」 「仕事サボって楽しくお喋り?――随分イイ御身分だな。毎日毎日飽きもせず会いに行きやがって。 しかも相手は人間、幽霊相手ならまだしもなに。生きてるヤツと関わんなって何度も言ったよな!?」 「……。人間と関わったのは謝ります。だけど別にサボってはないですよ、ちゃんと幽霊探して説得してるし、」 「言い訳なんて聞きたくない」 「言い訳ってそんな、…そりゃ、逃げられてばかりだから成果はないですけど」 「それなら尚更こんなとこで油売ってる暇ないだろ」 痛いほど強く掴まれた腕を乱暴に引かれて立ち上がる。あたしを掴んだまま飛ぼうとする翼に慌てて待ったをかけた。 「待ってください!玲さんを置いてなんか行けません!」 「もう二度と関わんねぇんだからほっとけよ」 「だからってこのままじゃ風邪引いちゃうかもしれないし」 「どうせ長くないんだ。今更お前がどうこうしても意味ないね」 「だからって放置しろって言うんですか?」 「文句ある?」 酷く冷たい色を宿した瞳の中で歪んだ顔のあたしが揺れる。 ひんやりとした温度の言葉に嫌な汗を掻きそうだ――死んだあたしは汗なんて掻かないけど。 「らしくないですよ。いつもの翼さんだったらそこまで非情にはならない」 日頃から鬼上司っぷりを発揮して口酸っぱく小言を投げつけるけれど、だからといって冷たい性格はしていない。 関わるなとは言っても関わってしまったとあればそれなりのことは目を瞑ってくれるし、何だかんだで気にかけてくれるのが彼だ。 人並みの常識も人並みの優しさも持ち合わせている翼が病人を屋外に放置しろだなんて言うはずがない。 頭の片隅で控えめに主張していた可能性が徐々に近づいてくる。今度は面倒だからとスルーはしない。だって、こんなの違う。 「そんなにあたしを玲さんと関わらせたくないんですか?」 渇いた唇でも意外と普通に喋れるらしい。その名を告げた瞬間に掴まれた腕の痛みが増したのは気のせいじゃないだろう。 暫く黙ってあたしを睨みつけていた少年はやがてゆっくりと口をひら――く代わりに小さな舌打ちを一つ。誰にというより自分に向けたものだろうか。 身じろぎの後にゆっくりと瞼を上げたお姉さんには視線を向けることはなく、 「…ちゃん?」 「あー起しちゃってすみませんー」 「私の方こそ誘っておいて寝るなんて失礼だったわ。それより、どうかしたの?」 彼女のことだから異様な雰囲気に気づいてはいるのだろうが、そこには触れず「お友達?」と小さく微笑んで翼へと視線をやった。 その視線を受けた翼は俯いたまま何も言わない。この場合の静けさは居心地の良いものではなくて、仕方なく代わりに口を開く。 「兄なんですー。なんか迎えに来てくれたみたいで」 「そう、お兄さんなの。迎えに来たってことは用事が出来たのかしら?私のことは気にせず行ってちょうだい」 「急ぎじゃないので部屋まで送りますよー…ね、お兄ちゃん?」 にっこりと営業モードでお兄ちゃん基 先輩を見やる。腕を掴む手をやんわりと外せば不機嫌そうな顔がわずかに持ち上がった ……うん、言いたいことはよくわかる。お兄ちゃんだなんて自分で言って鳥肌ものだ。視線がめっちゃ痛い――「それじゃあ戻りましょう」 すぐにこの場を去るかと思った少年は意外にも黙って後をついてきた。 相変わらず不機嫌オーラを放っていることは置いといて、でもそのお陰もあってか行きよりスムーズに病室に辿り着いた。 「今日は本当にありがとう。とっても楽しかったわ」 「あたしも楽しかったですよー」 「お兄さんも、付き合わせちゃってごめんなさ…、ッ!」 いつも通り惚れ惚れするような笑顔で告げられた「またね」に曖昧に頷いて素早く踵を返そうとした時、 伸ばされた白い腕―彼女の指先が、翼のそれに触れた 「玲さん…!」 瞬間、その場に崩れ落ちる身体。慌てて全身に力を入れて手を伸ばし、だけど支えきれず一緒にしゃがみ込む。 何が起こったかわからずに翼を仰ぎ見れば、彼は今度こそ盛大な舌打ちをして一瞬で姿を消した。 後を追うにも本気の彼に追いつける筈がないし、彼女を放っておくことも出来ないのでどうしようもない。 ナースコールを鳴らすべきかと思案するが、あたしが動くよりも先に支えていた頭が持ち上がった。 「大丈夫ですか?」 「えぇ……ごめんなさい、立ちくらみかしら」 呼吸は正常、顔色もそう悪くはない。ホッとしたのも束の間にきらりと光る雫に目を奪われて息を呑む。 一拍遅れてそれに気づいた玲さんはぱちぱちと瞬きをしながら頬へと手を伸ばした。 「ごめんなさい。何だかとても……とても、懐かしい気がして。すぐ止めるから、もう少しだけ待ってちょうだい」 「落ち付きましたか?」 いつのも定位置であるベッドとパイプ椅子で向かい合い、少しだけ恥ずかしそうに微笑む玲さんにコップを渡す。 美人の涙は心臓に悪い。ありがとうと受け取った彼女の様子からしてもう大丈夫そうだ。 「みっともないとこ見せちゃったわね」 「そんなことないですよー」 「ありがとう。だけど何だったのかしら?突然色んな感情が込み上げてきて…やっぱり歳ね」 「いやいやまだ十分お若いですって」 あたしの中で彼女は年齢不詳だ。普段は大人の魅力たっぷりな綺麗なお姉さん。 けれど、ふとした時に見せる笑みは無邪気な少女のようで、 「ちゃんのお兄さん、」 「え?」 「あ、ごめんなさい……気を悪くしないで欲しいんだけど、私 彼のことずっと前から知っているような気がするの。 初めて会うのに変よね。でもどうしてかしら、本当に懐かしくて…」 「……」 「――なんて、こんなこと言われても困っちゃうわね。そういえば時間は大丈夫?」 この話は終わりとばかりにコロリと表情を変えたその厚意に甘えいつも通り簡単な挨拶を残して部屋を後にする。 控えめな主張をしていた可能性もここまでくれば確信に近い――さて、まずは可愛らしい天使サマを探すとしますか。 |