さよなら私の幸せ。逃げて行った二酸化炭素の中に幸せが含まれてるなんて誰が言い出したんだろう。教室から離れた廊下の片隅で開け放った窓からグラウンドを見下ろす。トイレに行くふりをして教室を抜け出したから、いつまでもここで立ち止まってるわけにはいかない。 ……でもなあ。再び逃げ出しそうになった幸せを強引に呑み込んで窓枠に頬杖をついた。


「辛気臭え顔してんなー」
「わっ!…ちょっと、突然顔出さないでよ」


私の顔を覗き込むように隣の窓からにゅっと飛び出てきた顔に驚いて身を引く。びっくりしすぎて窓枠に肘ぶつけたんだけど。地味に痛い。だけど私を驚かせた張本人はそんなことどこ吹く風とばかりに爽快な笑顔を見せた。…無駄に爽やかでなんかむかつく。


「ちょっ…!なにすんだ押すな落ちるっつの!」
「大丈夫私若菜なら華麗な着地を披露してくれるって信じてる」
「アホか!ったく、しょーもねえことすんなよな」
「しょーもなくて悪かったですね。…てか若菜バスケしに行くんじゃないの?」
「なんで知ってんの?」
「あんたのバカデカイ声、多分隣のクラスまで聞こえてたと思う」


教室中に響き渡った声はやっぱり若菜のものだったらしい。まじで?と首を傾げた若菜に頷く。
廊下側で騒ぎながらご飯を食べていた若菜の声は窓側にいた私にまで一直線で突き刺さったから、壁を通り越して隣のクラスにも響いていたことだろう。
入学してまだ間もないのに若菜はあっという間にクラスのムードメーカー的ポジションに君臨していた。昔からそうだったから別に今更こいつの立ち位置になにか言うつもりはないけど強いて言うなら、若菜の人を惹きつける能力半端ねえ。


さあ、なんか悩んでんの?」
「…なに、突然」
「眉間の皺がいつもの三割増し」


うりゃ、と人差し指で眉間を押されて顔を顰める。触んなばか。若菜の手を退かしながら逃げるように顔を横に流せばかち合う視線。…あぁ、やだな。私と目が合った女子たちはさっと逃げるように目を逸らしてそのまま廊下を歩いて行った。知らない顔だから他のクラスか。あの子の視線と同じだったなあ……ん?ぼんやりと脳内で呟いた言葉に若菜の手を掴んだまま固まった。もしかしなくても原因ってこれじゃね?


…?おーいー。さーん?」


動かなくなった私の顔の前で自由な左手をひらりと振っている若菜のことは無視だ。
小学校からの持ち上がりが多かった中学では私と若菜の、ある意味性別を超越した関係に周りも口を挟むことはなかった。一部で妙な勘繰りをされたり噂話が流れたこともあったけど心底嫌だなと思うようなことはされたことない。今思えばとても恵まれた環境だったんだと思う。ちらちらと向けられる似たり寄ったりな視線に目を伏せた。


「まじでどーした?」
「どーもしないよ。友達待たせてるんでしょ?こんなとこで油売ってないでさっさと行きなって」


声を落とした問いかけに小さく笑って手を放す。だけど若菜はむっとしたように眉を寄せた。


「こんなとこって言うなよ。なに、もしかしてが落ち込んでるのってあの視線が原因?」
「気づいてたの?」
「あんだけガン見されりゃ嫌でも気づくだろ」
「ふうん。…別に落ち込んでるわけじゃないよ。ただ、どうしようかなって思っただけ」


思い浮かべるのは同じクラスのとある女の子
まだ全然話したことがないのに、なぜか妙に余所余所しい態度を取られるのだ。
私は普通に仲良くしたいなと思ってるから話しかけようとするんだけど避けられているのか上手くいかないし、もしかして気づかない内になにかしちゃったのかなと思っても殆ど関わったことがないから理由がわからずにもやもやしてたんだけど、多分きっと、てか絶対、理由というか原因は若菜だな。

若菜って顔は良いもんなあ……性格も悪くないし。

クラス中の誰とでもわけ隔てなく接している若菜だけど、女子の中では私に話しかける数は他より多い。一緒に帰ったりもしてるし。そう考えると、若菜くんってなんか素敵!とか思ってる女子にとって私は目の上のたんこぶってわけか。


「全員に好かれたいなんて思ってないけど、難しいよねー。てかメンドクサイ」
「出たよのメンドクサイ」
「うるさいなー。だってどうしようもないんだからしょーがないでしょ」
「手っ取り早く解決する方法あんだろ?」
「あるけどそれは嫌」
「なんで?」
「だってなんも悪いことしてないのに癪だもん」


若菜と関わるのを止めれば丸く収まるのはわかってる。でも、自分が嫌な思いをしたくないからってそれこそなにも悪くない若菜を避けるのは間違ってる。人にされて嫌なことは自分もするなって言うしね。
…それにこんなことで若菜とのくだらないお喋りや放課後の寄り道がなくなるなんてご免だ。


「ま、私と若菜の間にあまーい空気が存在しないことなんて周りもすぐ気づくでしょ」
「じゃあ俺今まで通りで良いの?」
「妙な気遣わないでよ、気持ち悪いから」
「かっわいくねーの。でも、のそーいうとこ好きだわ俺」
「そりゃドーモ」


ぐしゃぐしゃっと髪をかき回されて慌てて手を払う。乱れた髪の間から見えた若菜は相変わらず楽しそうに笑っていた。



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