一度蹲ってしまったら、もう二度と立ち上がれないと思っていた。 一定の距離から届く尖った囁きは俺の心にささくれを作ったけれど、口をきゅっと結びやり過ごすことが出来たのはそれが与えられて当然の痛みだと知っていたからだ。
IROKAKUSHI
色隠し 絵具をぶちまけたみたいな青い空に風が巻き上げた儚いピンクが舞って、はらはらと世界を彩る。 緑が目立つようになるのはどれくらい先だろうとぼんやり思考を泳がせる俺の目がとある光景を捉えたと同時に、頭の中の桜の木が一気に切り倒されてしまった。 「…」 数メートル先で見慣れた制服がぴょこぴょこと跳ねている。 両手を何度も宙に伸ばし、時には蚊でも叩くようにぱちんと打ち鳴らす姿に思わず眉根を寄せて立ち止まっていれば、不意に制服がくるりと回った。 「あ、」 「げ、」 零れた声は重なり、視線の先でぴたりと動きを止めた制服、基 後輩は俺がゆっくりと瞬きをする間に慌てたように両手を後ろに隠した。 「何してんだ?」 彼女も俺に気が付いた以上このまま何事もなかったように通り過ぎるなんてのは俺には出来ず、 内心苦笑しながら足を動かし彼女との距離を一メートルほど残して口にすれば、目の前の顔が不機嫌そうに歪む。またこの顔か。 「…あんたに関係ないし」 「そうだけど、お前傍から見たらかなり不審だぞ」 「うっさいばか」 「はいはい。で、何してたんだよ」 知らないやつなら素通りするけど、知ってるやつが変な行動をしていたら多少は気になる。 二度目の問いに彼女は口を開いて、閉じて、うろうろと視線を左右に揺らしてから、 「花びら」 小さな呟きを零した彼女は、俯いてしまったのでつむじしか見えない。 一体どんな顔をしているんだろう。ふと気になって傾こうとした頭は、だけど冷静な部分が確かめてどうすると囁いたことで動きを止めた。 「…花びら欲しいのか?」 「……綺麗だったから、ちょっと、良いなって」 「だったら花びらじゃなくて、咲いてるの千切ってけば?」 流石に枝を折るのはどうかと思うが、それくらいは良いんじゃないか。 届かないのなら取ってやろうかと枝に伸ばした指先で淡く咲いた一つに触れると、「止めて!」。 声と同時に肘の辺りをぐいっとやや強い力で下の方に引かれたので視線を落とす。 「良いから」 「…欲しいんだろ?」 「咲いてるのはそのままで良いの!可哀想なことしないで」 「あー、…そ」 下から見上げてくる尖った双眸にいつか見た敵意はない。 こいつ、悪いやつじゃないんだろうな。 口も態度も悪いけど根本の部分はきっと真逆。 ―だからこそ、初対面で引っ叩かれた俺が過去に何をしたのかが気になるんだけど。 「…、……」 声にならないのは、こわいから。 人に恨まれるようなことなら、きっと沢山してきた。 幼かった俺は故意に人を避けた。傷付けないように。傷付かないように。 黙っていた俺の心を他人が知るわけがない。 仲の良かった友人が突然自分を避けるようになったのなら、人はどう思うだろう。…言い訳さえ今更だ。 そうやって距離を置いても、些細なキッカケで声が暴れ、結果誰かを傷付ける。 実際に怪我をさせたわけじゃなくても俺の異質さは人の心に恐怖を植え付けるのだから、似たようなものだ。 恐怖、敵意、憐憫、好奇、異なる色の無数の目。 向けられて当たり前だと思っていた。だって悪いのは俺だから。 塗り重なった過去は消えない。俺が憶えていなくても、俺が犯した過ちは決して許されることじゃない。 …だから、いつか罰を受ける。こいつからも、記憶にない“誰か”からも。 優しく口を噤んだ姉以外に俺の異質さを見抜かれ、正面切ってバケモノだと告げられたなら、その時は首でも心臓でもやるからさ。 だから頼むよ。その瞬間までは、鮮やかな色の中の一つでいたいんだ。 桜の花を撫でるように、そっと指先で触れた彼女の穏やかな表情を崩すことは言いたくない。 「…あ」 「何よ」 「動くな」 「は、あ?なんなの急に」 眉を寄せる彼女に手を伸ばせば途端に不機嫌そうな声が返るが、 数回の邂逅で俺に対する態度の悪さには早くも慣れつつあるので特に気にもせず、「虫」。短く告げる。 「え、やだなに虫付いてんのっ?」 「取ってやるから暴れんな」 「早く!早くしてやだやだ!」 「わかったから大人しくしろって」 泣きそうに揺れる双眸に喉から込み上がる感情を抑えながら、そうっと、梳かすように指を通して。「もう取れた」。 ゆっくりと指を滑らせてから告げれば、ほうっと大きく息を吐く音。 「……ありがと」 「ちょっと手ぇ出せ」 「…、はあっ!?なにばか、ばかじゃない止めてよちょっとほんとにやだから!」 「噛まねえから」 「意味わかんな、わーっ勝手に人の指開かせんなもうやだ、ヤなの無理無理無理」 水を含んだ声に多少は良心が痛んだが、思い返せば叩かれたり足引っ掛けられたり散々な目に遭ったんだからこれくらいの仕返しは許される筈だ。 左手で手首を掴めば慌ててぎゅっと指を丸めたので、こっちも彼女の髪に触れた右手の三本を丸めたまま親指と人差し指で強引に指を開かせる。 どれだけ抵抗しようと力の差は歴然としていて、暫くすると諦めたのか固く握った手のひらから力が抜け、代わりとばかりに唇と瞼が固く閉ざされた。 「目ぇ開けろ」 「…」 「早くしねえと飛んでっちまうぞ」 「……」 「あんなに欲しがってたくせにいらねえの?」 「…虫なんていらないもん」 弱弱しい声に流石にやり過ぎたかと苦笑して右手でぽんと丁度良い位置にある頭を撫でる。 びくりと跳ねた肩は、数回撫でている内にゆっくりと元の位置に戻った。 「悪い。ちょっとからかった。虫じゃないから目ぇ開けてみって」 「……嘘だったらぶん殴る」 「おう」 震える睫毛がゆっくりと持ち上がり、一度、二度、確かめるように瞬く。 「きれい」 ゆるりと細められた双眸は手のひらに載せられた淡い色の花びらをしっかりと映したようだ。 唇から零れた小さな声は、けれどしっかりと弾んでいるのがわかった。 |