「翼!」
「そんなに急いでどうしたわけ?」


この後輩がこんな風に慌てる姿を見れるとは思わなかった。 息を切らして俺のところまでやって来たと思えば、勢いそのまま俺の腕を掴み渾身の一撃を放つ。


が倒れた」


目の前が真っ暗になるなんてことはない。ただ少しだけ視界が揺れた。 動揺を悟られないように一度目を伏せ、柾輝を見やる。目が合った。 それだけで悟ったのか、落着きを取り戻した柾輝は掴んでいた腕から手を放し口を開く。
あぁほんと、よくできた後輩だ。頼りになる仲間―相棒。場違いにも口許が緩みそうになるのをなんとか堪える。空気は読めるからね。


「血吐いて倒れたらしい。今は病院で容体も安定してるって」
「…そう。持病かなんかあったの?」
「知らねぇ。…あぁ、でもアイツのダチの話じゃたまに胃薬飲んでたみてぇだ」


ストレス その一言が浮かび上がる。あり得ない話じゃないだろう。の性格や周囲の環境を考えれば尚更だ。 眉を寄せた俺に気づいた柾輝は苦笑して話を続ける。


「再婚したんだと」
「いつ?」
「最近。だけど子供がいるらしい」


口振りからして相手の連れ子というわけじゃないんだろう。 名字が変わってないし本人が話さないので、知っているのは担任くらい。この後輩が知ってるのだって担任から聞きだしたんだろうし。 …あぁでも、柾輝なら本人から聞いたのかもしれない。そんなこと、今はどうでもいいけど。
入院先はこの辺りで有名な病院。見舞いに行くかと訊かれたので首を横に振っておいた。今はそんな気分じゃない。 何か言いたそうな顔をした後輩は、それでも何も言わず頷いて去って行った。





病室の前で足を止める。プレートに記入された名前の中にがあることを確かめてドアを開く。 わざわざ電話で病室を知らせてくれた後輩は、ちびどもの飯の支度があるとかでここにはいない。 見た目にそぐわず家事が得意な後輩のエプロン姿を思い出して笑う。そういや似合ってたな。
目が合ったおばあさんに微笑んで軽く頭を下げ、のベッドがある窓際まで歩く。 の向いのベッドは空いていた。久しぶりに見た顔は、なんの感情も浮かべずに窓の外を見ている。





名前を呼んで振り返ったときには 完璧な笑顔
じろじろ見られるのは好きじゃないから断りもなくカーテンを閉めると、それを待っていたようにが口を開く。


「お久しぶりです椎名先輩。わざわざありがとうございます」
「別に、暇だったから。それよりどうなの?」
「明後日には退院だそうです」
「そ。体調管理ぐらいしっかりしなよね」
「気をつけます」
「…再婚したんだってね。新しい家族と上手くいってないの?」
「そんなことないですよ。お父さんは優しいし、弟はすごく可愛いです」


勧められたパイプ椅子に腰掛ける。見上げる形になったの顔はやっぱり笑っていて、そこから本音を探るのは難しい。 俺が知っていることにこれといった反応を見せないのは、大方柾輝にでも聞いたんだろう。


「あんまり心配かけんなよ」
「…先輩に、ですか?」
「自惚れんな、柾輝に決まってんだろ」
「黒川くんは優しいですから」
「なに、僕は優しくないって言いたいわけ」
「そんなことないですよ。先輩だって優しいです」
「取ってつけたように言われても嬉しくねぇよ」


ぷいと顔を背ければ小さな笑い声が響く。ちらりと視線をやれば、が口許を押さえながら笑っていた。
この笑顔は本物だ。心からのものだとわかって、自然と口角が上がる。


「いつまで笑ってんだよ」


いい加減認めてもいいかもしれない。そんなことないと、頭の片隅に追いやって、否定ばかりしていたけれど――。 相変わらず左右で揺れる三つ編みに手を伸ばす。少しだけ首を傾げたは、それでも大人しくされるがままだ。

いつかのように枷を外し形を崩す。ふわりと甘い香りが広がった。

他にも見舞い客が来てるのかカーテンの外が騒がしい。子供の声も聞こえるから、もしかしたらさっきのおばあさんの孫かもしれない。 そんな外側とは違いカーテンで区切ったこの場所は静かだ。 がたり、と控えめに鳴った椅子の音がやけに耳に響いて、焦がれるようにメガネに手を掛ける。やっぱりは笑っていて、俺の手を止めようとはしなかった。


「ねぇ、聞いてんの」
「すみません、楽しくて」
「なにが」
「先輩と話すのが」


メガネを机に置くのとは反対の手での頭に手を伸ばす。くしゃりと撫ぜれば指の間を滑る黒のやわらかさに笑みを零す。


「柾輝じゃなくていいの?」
「黒川くんと話すのも好きですけど、椎名先輩と話すのも好きですよ」
「ふうん」
「…心配してくれてありがとうございます」
「自惚れんな」
「言いたかっただけですから」
「…いい加減笑うの止めないなら黙らせるよ」


ふわりと笑ったにざわりと心が揺れる。イイ度胸じゃん。 撫ぜていた手を後ろにずらしてそのまま物理的に黙らせる。少しだけ顔を離して瞳を覗きこむと、瞼に覆われていた漆黒が所在なさ気に揺れた。


「ざまあみろ」


悪役のような俺の台詞に一拍置いては笑う。くしゃりと撫ぜた髪からはやっぱり甘い香りがした。



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