「それ、母親にやられたんだって?」
「…黒川くんですか?」
「いいから答えなよ」


前置きのない強引な物言いにも関わらず仕方がないというように笑う。 この前もそうだったけど、生徒会室にこの女しかいないのはどうなんだ。俺としては都合がいいけど。


「……母が少し、厳しい人なので」
「少し?」
「少し」
「ふうん。…遅くなるのが困るんだったら言えば良かっただろ」
「興味があったんです」
「興味?」
「はい。わたし、ファーストフードって食べたことなかったんですよ」


俺と同じメニューを選んだのはそういうことか。 昨日のことを思い出して、自然と込み上げてくるものを強引に押し戻す。目の前の女は楽しそうに笑った。
今時珍しい三つ編みにデザイン性のないメガネ
この女が漫画の中によくいそうな一昔前の優等生スタイルをしているのは母親の影響が強いんだろう。 左右で揺れる編み込まれた黒こそがこの女自身を現しているようだ。


「どっちにしろ僕に言ってれば説明くらいしてやったのに」
「…椎名先輩って、ほんとに優しいんですね」
「別に。こんなの普通だろ」
「普通、ですか?」
「誰だって自分の所為で怪我なんかされたくねぇんだよ」
「そうですか。…でも、これは先輩の所為じゃないですから気にしないでください」
「じゃあなに、自分の所為だとでも言うの?」
「……そう、言うべきなんでしょうね」

「だけどわたしはそこまでいい子じゃありません」


浮かべられた笑みが一瞬だけ揺れた意味はなんなのか


「わたしはわたし。それ以外の誰でもないし、それ以外にはなれない。不満や欲求、そういう感情を持ち合わせた人間です。表面上は繕えても、心までは繕えません」


思いがけない言葉に息が詰まる。
自分の意思より他人を優先するような偽善的な人間で、いつだって完璧な笑顔を貼り付けた人形
そんな印象はこうして言葉を交えるようになってから薄れてはきたけど、それでもその印象を払拭しきれたわけじゃなかった。 改めてはっきりと視界に入れた女は、やっぱり笑っている。
――だけど、


「言うべき相手が違うだろ」


俺じゃなくて、俺よりももっと言わなければならない相手がいる筈だ。自分は母親の人形ではないのだと告げるべきだ。
わかっているのかいないのか。きっと前者だと思うのにそれでも女は笑う。


「名前って、面白いと思いませんか?」
「は?」
「個々を判別するためを目的とするなら別に数字でもいいのに。それなのにちゃんと意味を持つものを与える」
「…深い意味もなく付ける親もいるけどね」
「それでも数字なんかよりずっと温かみを感じるでしょう?」


自分の名前を嫌っているヤツだっているだろうけどそれなら別の呼び名で呼ばせればいいし、気に入らないものでも数字で呼ばれるよりはマシだ。 否定しない俺に女は――はどことなく嬉しそうに微笑む。


「黒川くんってわたしの前では必ずわたしのことを名前で呼んでくれるんですよ。下の名前じゃなくて、名字ですけど」
「…それが?」
「わたしがいないところではきっとそうじゃないと思うし、別にそれで構わないんです。 黒川くんが…ううん、黒川くんだけじゃない。たとえ二人称で呼ばれたとしても、温かみがあるなら十分」


アンタ や お前 と呼ばれて気に障る場合とそうでない場合との違いは、そのときの気分もあるけれど何より一番重点を置くのはそう呼んだ相手が誰であるかだ。 特に親しくない相手に呼ばれると慣れ慣れしいとか思っても、日頃から一緒にいるヤツが言うのなら特に気にならない。 …ま、必ず名前で呼ぶような相手の場合は別だし、その逆で親しくなくともそいつの性格によっては気にならないけどさ。 性格と親しさの両方の意味で、俺にとってのあの後輩はそう呼ばれても気にならない位置いる。


「名前って、その人の存在を認める一番簡単な方法だと思うんです。 大袈裟かもしれないけど、名前を呼ばれるとわたしはちゃんとここに存在してるんだなって思えるんです」
「…アンタでもいいんだろ?それってなんか矛盾してない?」
「…ですね。でも、どっちも本当にそう思うんだから仕方ないんですよ」


あぁ、やっぱりは人形じゃなかった。矛盾する生き物こそ人間だ。
新たな発見に少しの嬉しさを感じるが、の口から出てきた後輩の名前が邪魔をする。


「黒川くんはわたしが名前を呼ばれるのが好きだって知ってるから呼んでくれるんです」
「あっそ。柾輝の話はわかったけど、それがなに?」


僕は母親の話をしてた筈だけど。
そんな意味を込めて言い放てばは少し考える素振りを見せてからメガネに手を掛けた。 閉じた窓を背にしたと閉じたドアを背にした俺。レンズを通さないこの距離で、は俺の顔がはっきりと見えるのだろうか?
メガネを外すなら髪も解けばいい、僕といるときはそうしろって言っただろ。そんな軽口よりも先にが口を開く。


「母の目から見たわたしって、きっと透明なんですよ」


なんて綺麗に笑うんだろう
なんて、残酷な笑顔なんだろう

完璧な笑顔を浮かべるに、否定の言葉を掛けることができない。


「見えてるのに、あの人が見ているのはわたしじゃない」



って母親と二人で暮らしてんだよ。 父親は? 小学生の頃に離婚したらしい。 ふうん。それで? その母親がなんつーか…ちょっと気難しいタイプで、元々教育熱心だったらしいんだけど離婚して更に熱が入ったとか。 あの優等生っぷりは母親の教育の賜物ってわけ。 あぁ。 それにしても、いつもより少し帰りが遅くなったくらいで娘に手を上げる親…ね。 外食したってのも問題だったんだろ。 …それについては僕のミスか。 過ぎたことはしょーがねぇだろ。…離婚したときは母親に引き取られたけど、の姉は父親に引き取られたんだ。 姉? いつも笑顔で優しい姉だったってよ。厳しい母親の代わりに年が離れてるを随分甘やかしてくれたらしいぜ。

勉強もできて人当たりもいい、近所じゃ有名な自慢の娘

母親はその姉を引き取りたかったんだと。 ……それ、母親が本人に言ったの? そこまでは言わなかったけど、そうかもな。



「そういえば名前なんてずっと呼ばれてないなぁ」



こっからは俺の想像。離婚してアイツの教育に熱が入ったのは姉に行ってた分ってのもあんだろうけど、を通して自慢の娘――の姉を見てたんじゃねぇかって。 …その姉の見た目ってどんなだったか聞いた? ん?あぁ、綺麗な長い黒髪だってよ。…俺が知ってんのはこれくらいだ。



「名前を呼ばれないことは存在しないのと同じ。だからきっと、わたしは透明人間なんです」


まるで他人事のように笑う。
その笑みがあまりにも自然だから、今の話が全部嘘だと言われたら頷いてしまいそうだ。


「…はそれでいいわけ」
「なにがですか?」
「髪が邪魔なら切ればいい。外食だってなんだって、やりたいことがあるならやればいい」

「いつまでも透明なままでいいの?」

「……よくないですよ。だけど、仕方のないことですから」
「仕方ないってなに?そこにの意思はあるわけ?で、の姉にはなれないし母親の操り人形でもねぇんだろ」
「そうですね。でもこれがわたしの普通ですから」
「普通じゃねぇよ」
「わたしの普通と先輩の普通が一致しないのは仕方のないことです」
「…だからって、」


ぱちん と音が鳴る。両手を打ち鳴らしたは控えめに笑ってメガネをかけた。


「この話はお終いにしましょう」
「まだ終わってない」
「終わりですよ。すみません、仕事があるので出て行ってください」


事務的な連絡以外で他人に何かを強要することはない。会話の中に必ず逃げ道を作って、断ってもいいような状況を作る。
見ただけだった頃の俺は、のそんな態度を誰にでもイイ顔をするただの―それも悪い意味での八方美人だと思ってた。 誰に対しても如才なく振る舞うのは悪いことじゃないのに。
きっとは、個人の意思とかそういったものを大切に考えていただけなんだろう。
愚痴や世辞に付き合ってもそれに同意するわけではないし否定するわけでもない。 一人一人が違うものだとわかっていて、わかっているからこその態度だったんだ。 愛想を振り撒いてるわけじゃなかったし、俺みたいにのことが嫌いだとあからさまな態度を示すヤツにも笑みを浮かべるのはそういうことか。
誰にでもイイ顔をしているつもりはないから、誰に嫌われたとしても構わない。
俺みたいな捻くれたヤツの誤解を解こうなんて思ってないだろうし、そもそも誤解を誤解とも思ってなさそうだ。

そんながはっきりと見せた拒絶

浮かべる笑顔は変わらないのに、これ以上踏み込むことは許さないと言外に告げられているような気分。


「それにそろそろ戻らないと部活が始まっちゃいます。椎名先輩がいないと好き勝手やり始める人がいて困るって、前に黒川くんが言ってましたよ」


またその名前。何かを思い出したのか、楽しそうに微笑む顔が俺の機嫌を下降させる。
あからさまに眉を寄せてみてもその笑みが翳ることはない。


は柾輝が好きなの?」
「好きですよ」
「……そう、邪魔したね」


背中越しに聞いた声には躊躇う色などなく、やわらかな色を帯びている。 きっと、振り向けば完璧な笑顔が広がってるんだろう。ぱたんと閉じたドアの音が、の心の音に聞こえた。



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