「すみません、会長なら今席を外しているんですが」
「別にいいよ、生徒会長に用なんてないし」
「…それじゃあどういったご用件でしょうか?」
「ボタン、外れたから直してよ」


目線の高さまで右手を上げる。
浮かべられていた笑みが少しだけ崩れたことに思わず笑った。


「もしかして今日はアレ持ってないの?」
「ソーイングセットですか?持ってますけど」
「だったらやってよ。それともなに、忙しいの?」


自分でも理不尽だというのはわかってる。わかっていてのこの態度だ。 断るだろうかと少しだけ口角を上げれば目の前の女は手にしていた何かの資料を机に置いて微笑んだ。
…あぁ、むしゃくしゃする。
ノックもせずに生徒会室に訪れた時点で嫌な顔をしてもいいのに、不快感など微塵も見せないその顔に眉を寄せる。

飄々としている後輩がサッカー以外のことに口を出すのが珍しくてなんとなく気になっただけだ。 乗せられた感はあるが、わかっていて乗っている分には悔しさなんて感じない。 それに、マイナスの方向にではあったけど前々から気にしていたというのは否定できない事実だしね。


「座ってもらえますか?」


促されるままに椅子に腰を掛け机に腕を置く。 本当なら脱いだ方がやりやすいんだろうけど、この女が脱げと言わない限り脱ぐつもりはない。 それでいて少しでも針が刺さったら文句を言う準備だけは万全なのだから、自分でも嫌なヤツだなと思う。


「ボタンは持ってますか?」
「あるよ」
「それじゃあちょっと失礼します」


向かい合う形で腰を下ろした女は難なく細い針穴に糸を通し、更に俺が渡したボタンにも針を潜らせる。 それから俺に断りを入れると、シャツの袖を挟むように左手を入れてボタンを縫い付け始めた。
手首に触れるひやりとした感触がこそばゆい。この左手がある限り俺に針が刺さることはないだろう。

ふわりと香った甘さに顔を上げる。ぱちりぱちりと瞬く睫毛はやっぱり長くて、
特に何を思うわけでもなく、自然と手が動いた。


「椎名先輩?」
「なに」
「まだ終わってないので、動くと危ないですよ」
「利き手が右なんだからしょうがないだろ」
「もう少しで終わりますから」
「甘い匂いするけどシャンプー?」
「多分そうだと思います。自分ではわからないんですけど、そんなにしますか?」
「するよ。甘ったるくて嫌になる」
「甘い物は嫌いですか?」
「物による。…ねぇ、視力悪いの?」
「両目で1.0ないくらいです」
「じゃあメガネなくてもそれなりに見えるんだ」
「テレビとか黒板の文字はぼやけちゃいますけどね。…終わりましたよ」


右手に感じていた温度が消える。視線を落とせば、ボタンは在るべきところにしっかりと留まっていた。 裏を見ても縫った跡は綺麗で文句のつけようがない。つまらなくなって再び目の前の女へと視線を戻し、さっきと同じように揺れる黒髪を掴む。
立ち上がって片付けをしていた女は手を止めて俺を見た。その顔はやっぱり 完璧な笑顔


「ここだけ短い」
「切っちゃいましたからね。でもそんなに目立たないですし、すぐ伸びますよ」
「なんでいつも三つ編みなの?」
「これが一番邪魔にならないので」
「邪魔なら切ればいいだろ」
「……わたしもそう思います」


浮かべられた笑みが翳ることはない。やんわりと俺の手に手を添えて掴んでいた髪を解放させる。 それが何となく面白くなくて眉を寄せれば、女は控えめに微笑んだ。


「髪、下ろしてよ」
「邪魔になるので」
「また縛り直せばいいだろ」
「三つ編みって結構面倒なんですよ?」
「まさか僕に縛れって言ってるの?」
「違いますよ」


小さく笑って女が黒いゴムに手を掛けるとしゅるりと音を立てて解ける。枷を外された筈の黒は、それでも形を崩すことはない。 崩れない髪が崩れない笑顔と重なって、俺は惹かれるように手を伸ばす。がたり、と椅子が鳴った。

俺の手で崩されていく髪が風に揺れて甘い香りを放つ

少しだけ驚いたように笑みを崩した女に満足して、でももっと崩してしまいたくて今度はメガネに手を伸ばした。


「…椎名先輩?」


戸惑うように揺れた漆黒は、瞬きの後にはもう笑っていた。その態度に眉を顰める。


「悪くないね、いつもこうしてれば?」
「これじゃ視界がぼやけちゃいますよ」
「この距離ならはっきり見えるだろ」
「…こんなに近い距離だと、逆にぼやけちゃいます」
「嘘だね。見えてるくせに」

「まぁいいや、僕といるときはこうしてよ」

「……拒否権はないみたいですね」
「嫌なの?」
「いいえ、構いませんよ」


告げられた答えと苦笑に満足して笑う。伸びてきた手に従わずにわざとメガネを机に置いて、ついでにその上に転がっていた飴を一つ掴む。
生徒会室に飴がある理由なんて知らないし、どうでもいい。ストロベリーと書かれた英字を割いて口に放ると予想以上の甘さが広がって思わず眉を寄せる。


「ボタンありがと、


口の中に広がった香りは、鼻を掠めた甘さと同じだった。



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