「椎名先輩」


振り向いた先に待ち構えたような笑顔が広がっていて思わず眉を寄せる。あの女だ。 今まで何度か見かけることはあっても直接言葉を交わしたことはない。 俺のあからさまな態度に気づいている筈のその女は、相変わらず控えめに微笑んだ。


「サッカー部が申請していた件のことについて纏めてあるので目を通してください」
「…そう、わざわざどうも」
「気になることがありましたら会長までお願いします」


ご丁寧にも両手を添えて差し出されたプリントはしっかりと俺の方を向いていて、女の顔を視界から外すようにして片手でプリントを受け取る。 「それでは失礼します」。左右に作られた三つ編みが揺れる。 小さく頭を下げて俺の横を通り過ぎようとしたとき、くんっと何かが引っ張られた。


「え?」


引っ張られたのはプリントを受け取った方の腕
戸惑ったような声を出した女は俺の腕に目をやると、申し訳なさそうに笑った。


「すみません、引っかかっちゃったんですね」
「……ちょっと何してんの」
「先輩の制服を切ったりしないんで大丈夫ですよ」
「当たり前だろ。…じゃなくて、ちょっと待ちなよ」


袖口のボタンに絡まった髪に迷うことなく胸ポケットから取り出した小さなハサミを向ける女に待ったをかける。 不思議そうに首を傾げる姿に舌打ちしそうになるのをぐっと堪えた。
それにしても、この女はソーイングセットまで持ち歩いてるのか。本当にそつがない。


「なにも切ることないだろ」
「解くより早いですから」


ジョキン 響いた音と同時にはらりと黒が舞う。 大した長さではないけれど、俺が待ったをかけたにも関わらず迷うことなく髪を切ったこの女の神経が理解できない。


「…お前ほんとに女?」
「生物学的にはれっきとした女ですよ。それに、髪なんてすぐ伸びますから」
「だったらボタンだって付け直せばいい」
「……先輩って優しいんですね」
「は?」
「それでは失礼します」


小さく頭を下げて今度こそ俺の横を通り過ぎて行った。 ボタンに少しだけ残っていた黒を乱暴に外し、あの女と反対方向に歩き出そうとする俺に耳慣れた声が落ちる。


「さっきのちゃんやろ?ちゅーことはちゃんと会えたんやな」
「どういうこと?」
「さっき翼のこと探して部室に来たんだよ」
「伝えとこうかって言ったんだけど、自分の仕事だから翼がいそうな場所だけ教えてくれってさ」
「ほんまええ子やで。ちゃんが来たとき俺ら菓子食ってたからメッチャ慌てたんやけど、翼の居場所教えてくれたお礼に内緒にしとくて笑っとったわ」
「ふうん……なに柾輝、不愉快なんだけど」


俺達の会話に口を挟むことなく、けれど楽しげに口角を上げていた後輩を軽く睨みつける。
コイツが言いたいことなんて予想はできてる。更に鋭く睨みつけてやれば漸く口を開いた。


「見たまんまの女だったか?」
「…ただの優等生じゃなくて変な女だったのは予想外」
「変、な。何があったのかは知らねぇけど、アイツにとっちゃあれが普通だぜ」


普通、ね。 歩く生徒手帳のような女の普通が俺と一緒なわけがない。 歩きながら目を通してしまおうとプリントに視線を落とせば必然的に視界に入り込んだボタンに眉を寄せる。

視線の高さは殆ど変わらない。それどころか俺よりも少し低いくらいだった。
いつになく近くにあった顔 メガネに隠れていてよくわからないが、それでも伏せられた瞳を覆う睫毛は長かったと思う。 ほんの少し鼻を掠めた甘さはシャンプーの香りか。

互いの頭を少しもたげれば額が触れてしまいそうなほど近かった。

あのとき堪えた舌打ちを盛大に鳴らすと、ちょうど俺に話しかけていたらしい直樹が大袈裟なほどの反応を見せた。 すかさず直樹をからかい始めた六助とそれに呆れたような視線を向ける五助を放って再びプリントに目を落とす。視界の端で柾輝が口角を上げた。


「ちょっと知ってるって割には随分詳しいみたいだけど?」


深い意味はない。ただ少しからかってやろうと思っただけだ。
騒がしい声が後方から聞こえてくることからして、あの三人は立ち止まっているんだろう。現に、落したままの視界に入り込む足は四本。


「気になるのか?」
「別に。去年同じクラスだったんだって?」
「あぁ」
「お前殆どサボってただろ」
「前半はな。アンタに言われてからはちゃんと出てたぜ」
「当然だろ」
「ま、クラスでは浮いてたけどな」
「浮いてたのになんであの女と仲良いわけ?」
「そうでもねぇよ。ただが俺らみたいなヤツにも普通に接するヤツだからな」
「ふうん」
「第一翼が思ってるほど俺はアイツのこと知らねぇよ。俺が知ってるのはほんとにちょっとだけだ」

「遠回しに探り入れるなんてアンタらしくないぜ。行動あるのみ、だろ?」


ニヤリと笑った後輩を軽く睨みつければ降参と言わんばかりに両手を上げた。



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