連絡先を交換したからといって用もないのに連絡を取り合う関係ではなく、 アドレス帳に登録された「」の名を呼び出したことは一度もない。 恐らくそれは彼女も同じで、このまま何事もなければ俺の名など容易く埋もれて行くだろう。 そうであれば良いと思っていた。けれど、叶わぬだろうと知っていた。
雨惑い
AMADOI こんにちは、です。大したことはないけれど、今、右手に包帯を巻いています。 昼休みが終わる頃に受信した一通のメールは用件のみを記した飾り気のないものだった。 メールボックスに彼女の名が表示されている時点で予想は出来ていたけれど、 読み終わると同時に肺から二酸化炭素が吐き出されるのを止めることは出来ない。 今日会えないか と返すと、大丈夫 と返って来たので駅で待ち合わせる旨を伝え携帯を鞄に落とす。 (どう動くのが最善か…、) 望まぬ未来を回避する術は何か。 俺が彼女と関わるのを止めれば良いとも思ったが、止めたところであの瞬間に俺と彼女があの場に存在していたのなら意味はない。 例え俺が彼女を傷つけ嫌われようがアレを目にした時に彼女がどう動くかなどわからないのだから。 それなら、俺が駅を使わないようにする。不便ではあるが他の通学方法がないわけでもない。 …けれど、それはあの後ろ姿が俺じゃなくなるだけで、彼女は別の誰かを庇うかもしれない。 俺が彼女から離れることは最善の策には成り得ないのだから、それなら、 (―答えなんて一つだ。) あの時、背中を強く押されふらついたのは、振り向いて漆黒を大きく揺らしたのは、他の誰でもなく俺なのだから――、 「郭くん」 雑音を潜るように落ちた声に下げていた視線を持ち上げる。 彼女の右手で主張する白が抗えない現実を突き付けているようで、思わず眉間に皺が寄った。 「ごめん、待たせちゃったね」 「お詫びに飴でもくれるの?」 「今日は袋ごとあげても良いよ」 「…冗談だよ」 「うん。でも、郭くんはこうなって欲しくなかったんでしょう?」 胸の辺りまで右手を持ち上げた彼女は、 「ごめん、一応気を付けてたんだけど、」 と、困ったように眉を下げる。 「さんが謝ることじゃないでしょ」 吐き捨てるように告げてしまったのは、どうしてだろう。 取り敢えず移動しようと駅から離れる途中、 立ち寄った駐輪場で自転車の鍵を外したさんの手がハンドルに伸びる前に横から奪い、 既に彼女の鞄が入っている籠の中に俺の鞄も押し込める。 そのままカラカラと自転車を押しながら歩き出し数歩進んだところで振り返れば、 未だに一歩も動いていない彼女が驚いたようにぽかんと口を開けていたので間抜け面だと指摘しておいた。 手のひらに怪我を負った人間に何かを握らせるのは酷だろう。 態々告げることでもないので口にはしなかったが、ありがとう と笑った彼女は恐らく気が付いたのだろう。 「…あ、」 「なに?」 「話するの、あそこでも良い?」 隣の彼女は真っ直ぐに視線を向けたまま声だけを俺へと放つ。 そうして彼女の視線の先、人気のない公園で二つ並んだベンチに腰を下ろした。 ベンチとベンチの間には一人分程の隙間があり、俺達が座っているのは同じベンチではなく隣り合ったそれぞれのベンチ。 俺達の間の距離は同じベンチに座った場合と同じだろうが、 違う物に座っているこの距離こそが、俺とさんの距離なのだろう。 「昔ね、ここで不思議な男の子に会ったんだ」 公園に足を踏み入れた時からどちらともなく噤んだ口を最初に開いたのは彼女の方だ。 思い出を辿るように、ぽつりぽつりと声が降る。 「わたし、あの頃クラスの男の子達からちょっと意地悪されてて、あの日もお気に入りのヘアピン隠されちゃって泣いてたの。 …今思えば泣く程のことでもなかったんだけど、その時は大事な物が取られちゃって悲しかったのかな」 隣に座る俺ではなく真っ直ぐに前を向いたまま話す彼女の横顔が曖昧に微笑んだ。 「ぼろぼろ泣くわたしに周りは笑ってたんだけど、急に一人が わあ! って、大きな声出して。 顔上げたら知らない男の子が笑ってた子の肩を掴んでたの。 ……その子ね、そのまま何も言わずに暫くじっとしてたんだけど、一度わたしの顔を見て何処か行っちゃって、 戻って来た時には、これ、持ってた」 くるりと此方を向いた彼女が左手を開く。 飴玉のようにキラキラとした花が付いた飾りピンは、多少錆び付いてはいるが小さな子供が好みそうなデザインだ。 「あの時はただ嬉しくてあんまり考えなかったんだけど…、不思議だよね。あの子、どうして隠してある場所がわかったのかな」 視線は手のひらに落としたまま、ぽつり。 やがてきゅっと指を丸め、包帯が巻かれた右手をそっと添える。 「名前はわからないし、あの頃は色々あったからあの子の顔も憶えてないんだけどね、 あれからずっとこのピンはわたしのお守りみたいな物なんだ。すごく大事なの」 「……その子が、俺と似てる子?」 「なんとなくね。こんな雰囲気だったかなって」 「…そう、」 「ねえ郭くん。知らないままで良いことって沢山あるよ。 わたしは郭くんのことを知らない。郭くんも、わたしのことを知らない。言いたくないことは言わなくて良いの。 ―だけど、もしもそれを誰かに言う必要があるのなら、今わたしに言わなきゃいけないなら、」 「それは多分、言いたくないこと じゃなくて、言えなかったこと だよ」 ずっと一人で苦しかったよね。わたしにも分けてくれるかな。 ゆらゆらと揺れる双眸は真っ直ぐに俺を映し、やがてゆっくりと輪郭を崩した。 (雨なんて降っていないのに) |