ザアァァ…、手袋をしていても傘を握る指先は酷く冷たい。激しく降り頻る雨音が音という音を吸い取っているようだ。 変わらぬ速度で踏み出そうとした足をぴたりと止める。 ちかちかと点滅する青に急ぎ足で俺の横を追い抜いて行く人達を横断歩道の手前で視界に収めている内に やがて点滅が赤に切り替わり、尚も強引に駆け抜けて行く数名を待って車が目の前を横切って行く。 ダダダダダ、雨音は止まない。 ビニール傘を撃ち抜かんばかりの勢いにぎゅっと傘を握り直した。
雨惑い
AMADOI (これ明日は履けないな。) 落とした視線の先で色を濃くしたスニーカーに白い息が逃げた。 視界の左隅に映るローファーにそう言えば同じタイミングで足を止めた人がいたと何気なく視線を持ち上げれば、 傘越しにぶつかる、「…やっぱり郭くんだ」。 雨音に紛れてはっきりとは聞き取れなかったが、 最後に口の端をきゅっと持ち上げて彼女―さんは笑った。 彼女の顔が少しぼやけて見えるのは雨粒とビニールを二枚挟んでいるからだろう。 俺が差している物と大差ない傘を持つ剥き出しの指は痛々しい程に白く映る。 「久しぶりだね」 雨音を気にしてか張り上げられた声は今度ははっきりと耳に届いた。 きっと、彼女がいつもの傘を差していたらこの場で言葉を交わすことはなかっただろう。 透明のビニール傘では完全に視界を遮ることは出来ない。 「久しぶりの雨だからね」 さんと顔を合わせるのは確かに久しぶりだ。たとえ、 「こんなに酷いといっそ濡れたくなっちゃうなあ」 「あの日みたいに?」 あの日を含めたとしても。 口から滑り落ちた言葉に数瞬遅れて目を瞠る。失言だと口を噤んだ俺に、さんは緩く首を傾げた。 …聞こえなかったのか、それとも―。 詮索をするつもりはない。彼女があの日の邂逅を無かったことにするのなら俺はそれに合わせるだけだ。 彼女の事情など関係ないし、興味もない。 「何とかは風邪を引かないって言うし、試してみたら」 「それ、わたしが馬鹿だって言ってるよね?」 「直接的表現は避けたでしょ」 「うわー、微妙な優しさをありがとう」 「どういたしまして」 信号が青になったのを合図のように互いに前を向き流れに逆らわず歩き出す。 正面から傘を差しながらよろよろと走って来る自転車にこの雨の中よくやると一瞥をくれて、 周りと同じように距離を取るべく進行方向を右にずらすも、隣を歩く彼女はどうやら足元の水溜りを如何に避けて 歩くかに必死でこの状況に気付いていないようだ。 縮む距離の中、彼女の左を抜けようとした自転車が大きくよろけるのを目にしてしまったので仕方なく腕を引く。 「わっ!」 驚いた声が酷く遠い。体勢を立て直しすれ違って行った自転車も、雨の向こうで翳んで見えた。 「、ッ!」 クラクションの音にはっとすると同時に強く手を引かれるままに動いた足は一瞬縺れそうになるも 問題なく歩道まで俺を運び、先程まで立っていた横断歩道の左右へと頭を下げているさんを映しながらも 未だ意識は囚われたままで。―けれど、布越しに感じる冷たさが手から脳へと伝わる頃にはしっかりと意識は此方に戻っていた。 「ありがとう」 不可解な言葉に眉を顰めれば、気付いたのか彼女は言葉を足す。 「郭くんが引っ張ってくれなかったら自転車とぶつかってたから」 「、…そんなの、」 「だから今ので貸し借りはなしね」 残念だけど飴はあげないよー。 僅かばかり高いトーンで紡げばするりと遠ざかろうとする温度を反射で掴む。 きょとんと瞳を膨らませたさんは、何も言わない俺に困ったように首を傾げた。 「ごめん、今日は飴持ってないんだ」 違う。 「コンビニ寄る?」 違う、 「んーと…雨の日に手繋ぐと濡れるよね」 「訊かないの」 「え?」 「なんで何も訊かないの」 「…訊いたら郭くんは嘘吐くよね」 「…」 「別にね、嘘吐かれるのが嫌ってわけじゃないの。好きでもないけど、嘘にも色々あるし、わたしだって嘘吐くし。 ―だけど、嘘を吐く必要がないならそれが一番良いと思う。だから何も訊かない。 ……それに多分、もしも郭くんが本当のことを話してくれたとしても、わたしは何も出来ないから」 ザアアァ…、雨音は止まない。 鼓膜にこびり付く無機質な音は酷く冷たく、 水を吸った手袋が冷えた彼女の指先から更に温度を奪って行くのだと気付きながらも離すことは出来なくて、 「…ねえ、さん、手怪我したことある?」 「、え?」 「右手に包帯したことは?」 「え…と、ない、よ?」 「……そう。」 力を抜いた左手は重力に従ってだらりと落ちる。 彼女は自由になった右手にそっと目を落とし、それから、ゆっくりと目線を上げて俺を見る。 「次のバス乗れると良いね」 つい、と彼女が顔を逸らした先ではバスを待つ人達の長い列が延びていた。 (眩んだ世界で最後に視たのは、) |