電車の中で、置き忘れの傘を見た。 駅を抜け水溜りを避けて歩く人の群れに混ざり、既に短い列を成していたロータリーの一角で足を止める。 建物の間から見える空は橙から薄紫へと色を移そうとし、すっかり機嫌を直した雲を柔らかく染めては撫でるのみ。 綺麗に畳まれた水色ストライプの傘から滴る水は、ない。
雨惑い
AMADOI 「当たったでしょ」 寒そうに丸まった背中に声を投げればアスファルトにとんと立っていた傘がぐらりと揺れ、 戸惑いと驚きを載せ振り返った彼女の双眸が俺の顔を捉えると、その表情から前者だけがじわりと溶けた。 「びっくりしたあ…」 「そうみたいだね」 「うん、今もなんだけど、―雨、上がったなって」 「信じてなかった?」 「半々、かな?」 「へえ。天気予報では一日本降りって言ってたのに?」 「だって郭くん自信満々だったから。あんな風に言われたら誰だって そうかも って思っちゃうよ」 「そう?」 「そう」 「ふうん。それより賞品は?」 一瞬の停止の後に彼女の瞼が忙しなく上下する。 驚きともまた違う様子に眉を寄せれば、彼女は肩に提げていた鞄を肘にずらして中を開けた。 「郭くんって結構ノリ良いんだね」 「…どういう意味?」 「催促されるとは思わなかったから。 はい、どれでもお好きな物をどうぞ」 「何個まで?」 「、ふふっ、何個でも良いよ?…とは言っても全部持ってかれるのは困っちゃう、なー、なんて」 「冗談だよ。ありがとう」 差し出された袋からオレンジと黄緑を引き抜いて礼を言うと彼女は首を横に振りながら自分も袋の中を漁る。 黄色を摘み上げれば、まだ中身が詰まっている袋を折り畳むようにして鞄に戻した。 かさかさと独特の音を響かせながらフィルムを剥がし、黄色い飴を口へと落とす。 そうして再び俺へと視線を向け、手のひらで転がる二つを見ながら問うのだ。 「オレンジとマスカット好きなんだ?」 「特別好きってわけではないけど」 「…何味か確かめずに取ったの?」 「どれも甘いのは変わらないでしょ」 今食べる気はないので一先ずポケットに仕舞いながらこの色を選ぶに繋がった二人の顔を浮かべていれば遠慮がちな声。 「……もしかして甘いの苦手、ですか?」 「苦手な物を催促してまでもらうような特殊な性格はしてないつもりだけど」 「…郭くんって結構面白いね」 「今の流れでその結論に至った理由は?」 「だって、――あ、バス着た」 ぶるる、と音を立てて停まった車体にゆっくりと列が動き出す。 流れを止めぬよう前を向いて歩き出した彼女に俺は小さく息を吐いて後に続こうとするが、 背後から何かがぶつかった衝撃を感じると同時に俺の世界は音もなく眩んだ。 「――、…」 「バスならもう行ったよ?」 「、……乗らなかったの?」 「乗るつもりだったけど、急いでるわけじゃないから」 「…そう」 「そう言えばさっき郭くんにぶつかった子とお母さん、ごめんなさいって謝ってたよ」 何でもないように口にしては、気遣うように俺を見る。 突然反応をしなくなった人間に疑問や戸惑いを覚えるのは当然で、彼女の態度も当然のことだ。 ―けれど、 聴覚が役目を取り戻したことに零した吐息は白く、彼女が次に放つだろう言葉を幾つか予想して先に此方が放つ。 「寒い?」 「え?うん、」 「次のまで時間あるし、温かい物でも買ってくるよ」 視線は駅へ投げながら、「何が良い?」。声だけを彼女に向ける。 ポケットの中では二つの飴がかちりと音を立てていた。 「……、…じゃあココアでお願いします」 「わかった。待ってて」 碌に顔も見ずに背を向けた俺は、彼女にどう映ったんだろう。 …別に、どう思われても構わないのだけど。 ガコン、音とともに落ちてきた缶を取り出して何とはなしに眺めるも脳が描き出す映像は缶のパッケージとは程遠く、 残像を消し去るようにぎゅっと目を閉じて唇を噛む。 知らず知らずの内に力が入ったのか、手の中の缶が小さく悲鳴を上げた。 酷いものを視たわけではない。 白昼夢が連れてきたのは何てことのない日常の一部に過ぎず、俺が心を揺らす必要など少しもないのだ。 俺はただ、いつものように意思とは関係なしに堕とされた世界に蓋をして、視なかったことにすれば良い。 簡単なことだ。もう慣れた。 (……そんなこと、有り得ないけど。) 違うとわかっていながらも言い聞かせることしか出来ない。 それが歯痒くもあるけれど、どうしたってこればかりは仕方がないのだ。 だからちゃんと騙されろ。慣れたと思ってしまえば良い。偽りを真実に変えてしまえ。 一つ、息を捨てて光を取り戻す。 ざわついていた心は既に落ち着きを取り戻し、俺は確かな足取りで彼女の許へと戻った。 「お帰り」 「……、ただいま」 足音に気付いたのか振り向いた彼女は開口一番に凪いだ音を響かせる。 向けられる視線から先程含まれていた色はなく、何事もなかったかのようにただそこにあるだけだ。 「それ、奢りだと解釈しても良いですか?」 「…ちゃっかりしてるね」 「それ程でも?」 元よりそのつもりだったけれど、悪戯っぽく告げる彼女に合わせ此方もわかり易く口許を歪めてから缶を渡す。 受け取ろうとして手をもたつかせた彼女に今度は自然に眉を寄せると、彼女は失敗したように顔を歪めた。 「ごめん、実は猫手で…」 「ネコッテ?」 「んーと、あれです、猫舌の手バージョン」 「…ああ」 「でもあったかい物は好きなんだ。ありがとう」 「どういたしまして」 暖を取るように両手でしっかり缶を握り締めては暖まった手を片方頬に当てる。 ほう、と白い息を吐く彼女は、結局その後も俺に疑問をぶつけることはなかった。 (嘘と本当を混ぜるだけ) |