「…あ、」 頭上から降る声に何気なく顔を上げると、昨日の彼女がぱちりと目を瞬かせて俺を見下ろしていた。
雨惑い
AMADOI 「おはようございます」 「…おはようございます」 「昨日は、―あ、すみません」 乗り込んできた乗客に押されるようによろめく彼女の姿に一つ息を捨てて立ち上がる。 思い返せば昨日も人に押されたり割り込みをされたりと、どうやらあまりついていないようだ。 「座りなよ」 「え?でも、」 「見下ろされるのは好きじゃないんだ」 「え、?……あ、はい、えと…ごめんなさい?」 「うん」 入れ代わり腰を落ち着けた彼女は俺を見上げると「ありがとうございます」と笑った。 「そればっかりだね」 「そうですね」 「…あ、そう言えば飴ありがとう」 「いえいえ。レモン味大丈夫でしたか?」 「平気」 「良かったです」 思い出したように当たり障りのない言葉を交わし、扉が閉まる音を合図かのようにどちらともなく口を噤む。 相変わらず眠気を誘う揺れを感じながら、俺は斜めに水が走る窓に焦点を合わせた。 (今日は昨日より強いな。―でも、) 車体が揺れる度に傘から滴り落ちる滴は足元に小さな水溜りを作り、車内には雨の日独特の空気が流れる。 濡れた傘にぶつからないよう、そして他人にぶつけないよう注意しながら ぱたぱたと窓を叩く音や混ざり合う人の声を感慨もなく拾っていた耳がぽつりと落ちる声を拾った。 「雨」 不意に、窓硝子に映る視線が重なる。 「雨、止みそうにないですね」 「そう?」 「天気予報でも今日はずっと本降りだって言ってましたし」 「止んで欲しいの?」 「まあ。冬の雨って痛いじゃないですか」 「…そう」 彼女の言葉を受けて窓硝子から窓の外へと焦点をずらし、どんよりと厚い雲を見る。 ―やっぱり、 「午後には止むよ」 「え?」 「雨」 理由を訊かれても勘としか答えようがないが、思うまま口にすれば 窓に映る彼女は暫く動きを止めた後にゆっくりと目を伏せて、素早く持ち上げ表情を和らげた。 「……そう、ですか。じゃあ止んだらまた飴あげますね」 「何それ。賞品?」 「そんなところです。帰り、いつもと同じ時間ですか?」 思わず眉を顰めると、窓に映る彼女の顔が見る見るうちに慌てたものへと変わり そのままの勢いで此方を振り向いて言葉を重ねる。 「あっ!ごめんなさい。えっと、わたし雨の日はバスなんですけど、いつも一緒になるんで覚えちゃってて…!」 ストーカーとかじゃないです! 周りを気にしてか小さな声ではあるが力強い言葉に、俺は思わず息を零した。 「…そういう心配はしてないよ」 彼女が着ている紺色のブレザーが俺が通う高校の隣駅にある女子高のものだと言うのは気付いていた。 眉を顰めたのは不審に思ったからではなく、ただ、 「同じバスで良いの?」 「―、え?」 「昨日と」 濁すように告げればくしゃりと目の前の表情が歪む。 何処か困ったようなそれは所謂苦笑と言うもので、 考えるように斜め上に動いた視線が再び俺のものと重なるまでにそう時間は掛からなかった。 「んー……平気、じゃないですかね?またあの人が乗ってたとしても爪先の痛みで懲りてると思いますし」 「…」 「正直、あれ?って思った段階で助けてもらえたんで、もうそんなに気にしてなくて」 「そう」 「はい。ラッキーでした」 車内アナウンスが終点を告げ、バスを降りて駅に向かう人の流れに逆らわず 尚且つ向かう先が同じだとわかっているので敢えて別れることもないだろうと世間話を交えながら―どうやら同学年だったらしい―並んで歩く。 改札を抜けホームに着くと、彼女は通行人の邪魔にならない位置で足を止め改めて俺を見た。 「此処までだね」 隣とは言え降りる駅は違い、今まで同じ車両で見掛けたことがないのは互いに下車駅の階段や改札付近を選んでいるからだろう。 これ以上特に話すこともないので彼女の言葉に何ら異論はなく、俺は頷いて彼女の横を通り過ぎるべく足を踏み出す―「あ、」。 追い掛けてきた声に動きは止まり、僅かに首を捻りつつ振り返る。 「名前、訊いても良い?」 「訊くだけ?」 「え?…あ、です」 「郭英士です」 かくえいしくん 口の中で反芻された俺の名は、次いではっきりと音になる。 「それじゃあ郭くん、また帰りに」 (外れる気がしないな) |