――ああ、またか。 しとしと、ととと、雨粒が屋根を跳ねる。 畳んだ傘からはぽとぽとと水がアスファルトに恋い焦がれ、繰り返し繰り返し抱擁を求めては消えて行く。 (…くる。) 冬の雨は刺すように冷たい。 駅前のロータリーでバスに乗車する列の最後尾にいた俺は眩む世界の中でそっと傘を握る手に力を籠めた。
雨惑い
AMADOI 「……あの、」 乗らないんですか? 雨音を潜る控え目な声に塞いでいた視界を広げ焦点を合わせる。 僅かに寄せられた眉は不機嫌の類ではなく此方を気遣うようでいて、 運転席に背を向け扉が閉まらぬように立つ彼女を見上げ俺は頷くと同時に一歩踏み出した。 「すみません」 多少なりとも出発時刻を遅らせてしまったようなので運転手へと詫びを入れそのまま奥へ進み、 ぶるる、と聞き慣れた音を立てていた車体が音を変えゆっくりと動き出したので空いていた席に腰を落ち着ける。 外との温度差で窓は曇り、ぼんやりと映った見慣れた顔を通り越して俺の目が別の映像を脳に送り付ける間も 車体は眠気を誘うように揺れ、時折停まり、 何度目かを繰り返した時に輪郭の崩れた映像が不意に鮮やかになった。 俺から見て反対斜め後ろに座っていた紺色のブレザーが立ち上がり、乗り込んできた妊婦に席を譲る。 乗車人数が多かった為にそのまま流されるように後ろへ後ろへと進んだ彼女が視界から消えたところで窓から目を離し、 丁度目が合った年配の女性に席を譲る名目で俺は静かに席を立ち手摺や吊革に掴まる人の間を潜って紺色のブレザーを探した。 「次で降りるよ」 「、え?」 彼女とその横にいた男の間に割り込むように手を入れてブザーを押せば、 戸惑いがちに正面の窓を見ていた紺色のブレザーを着た女子高生がびくりと肩を揺らしてそっと俺を振り返る。 同時に肩を揺らした男には目もくれず、やがてゆっくりと停車したバスから彼女の背を押すようにして降りた。 「あの、…」 「警察に突き出す方が良かった?」 「い、いえっそんな、全然……ぜん、ぜん、」 「…そう。一応停車の揺れに紛れて爪先は踏んでおいたから」 「えっ?」 「捻り潰す感じで」 しとしと、しとと、雨粒が屋根を跳ねる。 水を含んだように揺れていた瞳がぴたりと止まり、ぱちぱちと瞬きを繰り返すもそこから流れるものはなく、 「、っふ、ふふ……わたしも踏めば良かったなあ」 「惜しいことしたね」 「全くです。―ありがとうございました」 彼女はそう言って深々と頭を下げて、たっぷり五秒後に此方を向いた顔には 何処か不思議そうな色を載せていたので何か言われる前に先手を打つ。 「別に。偶々気付いただけだよ。さっきのお礼言ってなかったから探してただけだし」 「さっき…?」 「声掛けてくれたでしょ。ありがとう」 「…ああ。あれくらいでお礼なんて……、でもそのお陰で助かりました。これぞ正に 情けは人の為ならず ですね」 「そうかもね」 しとしと、ととと、腕を広げた沈黙を雨が浚う。 思い起こす、既にぼやけた輪郭に音はなく、 曇った窓に映る彼女の、何かを耐えるような硬い表情 横に動いた映像は同じく窓に映る男の顔。――そして、暗転。 「あ、バス着ましたよ」 一本遅いバスは先程に比べ空いているようだ。 目の前で停車した車体に乗り込んで俺たちはそれぞれ空いている座席へと座る。 窓の外を流れる景色はいつもと何ら変わることなく、 流れては止まり、止まってはまた流れ、繰り返し繰り返し俺の双眸に見慣れた世界を焼き付けては灰にする。 彼女に告げたことは嘘ではないが真実でもない。 確かに彼女が声を掛けてくれたお陰でバスに乗りそびれずに済んだが、 だからと言って俺はそのお礼を言う為だけに態々混雑している車内を移動する程律義な性格ではない。 そして、偶々気付いた、と言うのも正確には相応しい表現ではない。 偶然が重なった結果ではあるけれど、違うのだ。 (ああ、でも……気付いた、とも言えるのかな。) 彼女の硬い表情と男の姿から察したわけだから言葉としては強ち外れてもなさそうだ。 何度目かの停留所で車体が停まると、下車すべく扉へ向かう足音が一つ俺の横で止まり―「これ、お礼です」。 見上げた俺の手にころりと丸いフォルムが落ちる。 扉が閉まる音を聞きながら窓の外を見れば、街灯に照らされた紺色のブレザーを纏う彼女が丁寧に頭を下げていた。 (そう何度も感謝されても…ね。) 助けた と言うのは少し違う。俺は決してヒーローではない。 あの時、動き出した列に学生が強引に割り込んだことによって目の前の影が揺れ、 前に進もうとした俺の手に目の前に並んでいた人の手がぶつかった。 あの偶然と俺の推察、そして起こった気紛れによって彼女は 助けられた に過ぎないのだ。 (黙っていれば良いだけか) |