いやあ、マイッタ。爪先に引っ掛けた緑をプラプラと揺らして苦笑い。
間接的にしても直接的にしても、嫌がらせを受けてにこにこしていられるほど私はお気楽でもなければ間抜けでもない。数時間前に下駄箱に着くまではまさかこんなことになるとは思ってもいなかったんだけどなあ…。靴を履き替えようと伸ばした手が空を掴んだ瞬間に、これから起こり得る未来について頭の中を様々な想像が駆け巡った。上履きの誘拐犯はクラスメートだろうか。今のところ捜索願を出すつもりはない。スリッパあるし。ただ、今朝みたいに呼び出されるのは困る。休み時間の度に連れ出されるなんて堪ったもんじゃない。しかも初っ端の呼び出し相手が三年ってなにさ。展開早すぎじゃない?若菜ってどんだけ顔広いのよ。


「いてっ!」
「あ、ごめん。なんだ梶か」
「なんだってお前なあ」
「ごめんごめん、すっぱ抜けちゃった」


謝りながらも席を立たない私に呆れたような溜息を吐いた梶が逆さになって転がったスリッパを拾い上げる。そのままこっちに歩いてきたので、私は履かせてとばかりに爪先を天井に向けた。


「お前はどこの王族だ」
王国の第一王女でーす」
「…ってノリが若菜と一緒だよな」
「ちょっと、それって遠回しにバカって言ってる?一緒にしないでよ」


心外だとばかりに眉を顰めて、再び緑を纏った足を今度は大人しく地面に縫い付ける。


「これって次の時間の予習?」
「そー。昨日やり忘れちゃってさ。てかなに、もう行って良いけど?」


所々知らない単語の混じった英文をそっくりそのままノートに書き写しながらちらりと目線だけを上げれば梶はどこか困ったような顔で私を見下ろしているから不思議だ。なに?と、無言で訴える。休み時間は後二分しかないから、用があるならさっさとして欲しい。


「若菜のことなんだけど…」
「んー」
「今日あんま喋ってなくね?」
「朝喋ったよ」
「いつもだったらもっと喋んじゃん。さっきのだって、いつもだったら絶対若菜が聞きつけて喧嘩になるし」
「アイツ地獄耳だからねー。自分の話題に敏感なんでしょ」
「…もしかしてなんかあった?」
「なんかって?」
「や、ほら…今朝先輩に呼び出されただろ?」


ぴたりとシャーペンが止まる。顔を上げればやっぱり困ったような顔と目が合って思わず溜息が零れた。


「若菜に教えたの、梶?」
「おう」
「……余計なことしないで」
「でもが呼び出されたのって若菜が原因じゃん?」


視界の隅でふわふわの茶髪が揺れる。私の声を遮るようにスピーカーからお決まりのチャイムが鳴って、結局私の言葉は私の中に響くだけだった。


嘘を吐いたわけじゃなかった。「付き合ってるのか」と訊かれたから「違う」と答えたのはほんとだし、暴力を振るわれたわけでもない。ただ若菜との関係を事細かに説明するよう求められただけだったから、わざわざ若菜に教えるほどでもないと判断したのだ。
―だから、あのとき怖い顔で詰め寄ってきた若菜に私は何一つ嘘は言ってない。
それなのにどうして、アイツはあれから私に近寄って来ないんだ。梶の言った通り、いつもだったら私が若菜の悪口を言った瞬間にどこからともなく聞きつけて文句を言うくせに。急いで予習をする私の邪魔をして、私が新商品のお菓子を取り出せば断りもなく手を伸ばすくせに。

お腹の真ん中がずしんと重い。

上履きを隠されたことよりも、朝っぱらから先輩に呼び出されたことよりも、私と目が合ってもまるでなにも見えてないかのように違和感なく目を逸らす若菜の態度に私はショックを受けていた。

私が短気だって知ってるくせに……あんにゃろ、今に見てろよ。

白いチョークでデコレートされていく黒板を睨みつけて、机の下でかこかこと携帯を打つ。
そうして私は一人 刻一刻と近づいてくる決戦の時に備えてぐっと拳を握った。




「若菜結人!」


突如響き渡った声に教室を去ろうとしていた英語の教師までもが一瞬足を止めた。呼ばれた本人は驚いたように目をぱちくりとさせて、教室中の目という目は一気に私に突き刺さる。両手を机に叩きつけるようにして立ち上がった私はそのままずんずんと若菜の席まで足を進める。


「んだよ、デケー声で呼ぶなよな」
「こうでもしないと逃げるでしょ」
「は?」


不可解だとばかりに眉を寄せた若菜に私はにっこりと良い子のお手本にできるような笑顔を浮かべ大きく右手を振り上げた。


「ッ!?」


パシンッと小気味良い乾いた音が響き、いつだってくるくると変わる人懐こい顔が驚愕で満たされる。
静まり返った教室は誰かの息を呑む音を皮切りに少しずつざわめきを取り戻した。相変わらず視線は私に突き刺さってるけど。


「なにすんだよ!」
「殴ったの」
「見りゃわかるっつの。なんで俺がに殴られなきゃいけねーんだよ」
「胸によーく手を当てて考えて。あ、やっぱ良いや素直にやられてもなんかむかつくし」
「おっま、てか汚ぇだろ!人の頭スリッパで殴んな!」
「ゴメンアソバセー?」


右手で握り締めた緑色のスリッパと言う名の凶器を顔の横でチラつかせながら私はまたにっこりと笑った。こいつが人一倍ヘアスタイルにこだわりを持ってるのは知ってるけど、だからなに?って話だし。
つまり私、堪忍袋の緒がぶっちぎれたわけです。


「こっの暴力女!」
「あんたが殴られるようなことするからでしょ!」
「俺がいつ何したってんだよ!?」
「したでしょーが!私の存在丸っきり無視しやがって、お陰でこっちは気分最悪よ!」
「ハァッ!?誰がいつ無視したっつんだよ!」
「隠してるつもりだったの?バレバレだっつーの!気持ち悪いから妙な気遣うなって言ったでしょ単細胞!」


ガタンと立ち上がった若菜が私の胸倉を掴もうとしたのと私が再びスリッパを振り上げたのは同時。そしてそんな私たちが背中から押さえ付けられたのも同時だった。眉を吊り上げたまま振り返ればどうやら私を押さえ付けてるのは梶らしい。若菜は男子に二人掛かりで押さえられている。


「落ち着けって二人とも!取り敢えずはスリッパ下ろせ!なっ?若菜もだって一応女なんだから殴っちゃ拙いだろ」
「ちょっと、一応ってなによ」
「そのまんまの意味だろばーか」
「は?」
「やるか?」
「だから止めろってお前ら…!」


大きく息を吐いて押さえ付けられた腕を動かして解放を訴える。机を挟んで同じく押さえ付けられていた若菜はおどけたように両手を上げてもうその気はないとアピールをした。

私たち二人を中心にできあがった円は相変わらずざわついている。何気なく教室中を見渡してから再び正面を見て、不機嫌そうな顔の若菜に向けて小さく片方の口角を上げた。



帰りに下駄箱で靴を履き替えようとすると、スリッパを仕舞おうとした場所に見慣れた上履きがお行儀良く並んでいた。私はしてやったりとばかりに微笑んで不要になったスリッパを意味もなく若菜の下駄箱に突っ込んでかこかことメールを打つ。

作戦成功!本気で殴ってごめーんね

ま、若菜の態度にむかついてたのはほんとだから本気で殴ったんだけどね。明日には噂好きの女子たちによって学校中に私と若菜の大喧嘩の話が広められていることだろう。若菜くんって素敵!とか思ってる女子たちは私が若菜の恋愛対象外であることを知ってザマアミロと思えば良いさ!




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