「その眼がムカツクんだよ」


聞き慣れた言葉だ。特に何を思うこともない。 シャワーの如く浴びせられた言葉も向けられた眼差しも既に経験済みのものだったが 此処まで痛め付けられたのは流石に初めてだ。肉体的な意味で。 そもそも重力に従って横たわっていた身体を髪を引っ張ることで強引に起こされもすれば瞳に嫌悪が宿るのも仕方がないだろう。


「あんたもう学校来ないでくれる?てかもう消えちゃえば?」


歪な笑みを浮かべて見せ付けるように片手で掴んだ茶色を揺らした人物をただ視界に映していれば腹部に重い一撃。 「、ッ」。声にならない音が薄く開いた唇から零れ、背中が壁にぶつかる。 ―――嗚呼、何故私がこんな目に遭わねばならないのか。思い当たる節があり過ぎて舌打ちどころじゃない。

去って行く複数の背中を見送る義理などないので少しでも痛みを逃すべくゆっくりと瞼を落とすも、 じゃり、耳が拾った音と同時に塞いだ視界が陰った為に仕方なく重い瞼を押し上げた。


「あ、生きてた」
「…」
「おーい、何か反応してよ」
「死ね」
「ひっど!彼氏に言う言葉?」


目の前でしゃがみ込んだ男の実に愉しそうな顔を見て他の言葉が浮かぶ筈もない。
視界に入れるのも不快で再び閉じようとした瞼はけれど追いかけて来た声により動きを止め、


「そんなことより俺に言うことあるよね?」


一気に跳ねた。
告げられた言葉の意味を正しく処理するつもりなど毛頭なく、ただ、開いた唇からどろりと歪んだ音が響く。


「話が違う」
「何が?」
「肉体的苦痛に遭わないよう最大限考慮してって最初に言った」


衝動的に胸倉を掴み縮まった距離で吐き捨てる。

水を被った日から目に見えて増えたスキンシップにうんざりすると同時に最悪の事態を予測はしていた。 してはいたが、この男が条件を忘れているわけではないと知っていたので回避するべく上手く立ち回るだろうとも思っていたのだ。
こんな男を当てにした私が馬鹿だっただけの話だけれどそれだけで片付けられる程感情のコントロールは上手くない。

どろり、渦を巻く感情を彼にぶつけるのは間違っていない筈だ。―それなのに、


「、んっ…、……!」


吐き出そうとした言葉が唇で塞がれたと気付き慌てて距離を取ろうとするも一瞬で距離を埋めた男により 既に頭を固定されていて逃げることも出来ない。
抵抗しようにも痛みが邪魔をし、胸倉を掴んでいた筈の手からはとっくに力が抜け、酸素の足りない脳が楽な方へと流される。

言葉も思考も全て食らわれて散々好きにされた私はやがて解放されるとぐったりと身体を壁に預け、 いっそこのまま意識を飛ばしてしまいたいと思うも熱を帯びた手がゆっくりと頬を撫で顎を掬うものだから これ以上好きにさせて堪るかと酷く重たい瞼を持ち上げたけれど、


「助けてって言わないが悪い」


霞んだ視界に映した男のギラギラとした獣のような眼に本能的に恐怖を覚え、またしても逃げ遅れた。
噛み付くようなキスをした彼は最後に私の一部分だけ短くなった髪を指に絡めて、一度だけ瞳を合わせるとそのまま何を言うでもなく去って行った。


「………ふざけんな」


意味が解らない。ふつふつと腹の底で煮込まれて行く感情に息が乱れる。
ふざけんなふざけんなふざけんな!一瞬で膨らんだ破壊衝動は然れど理性が押し止め、深く深く、息を吐く。
ずきりとした痛みに眉を寄せつつお陰で冷静さを取り戻した脳でまずすべきことは何かを思考する。


「水道」







流れ落ちる水を見ていると何故こんなにも落ち着くのか。
蛇口を捻ったままぼんやりと水を眺めていた私だが、「若菜?」。鼓膜を揺らす音に否応無しに現実に引き戻された。


「…」
「…お前、どうしたんだよ、その怪我」
「……」
「ちょっと待ってろ。藤代呼んで、」
「余計なことしないで」


振り向いてぴしゃりと言い放てば瞳を驚愕に染めた彼はぎゅっと眉根を寄せる。
どいつもこいつも人の顔を見ればその名ばかり。馬鹿の一つ覚えか。蓋をした感情が顔を出す。

舌打ちをして彼から意識を逸らし本来の目的を果たすべく両手で掬った水で念入りに口を漱げば幾分かさっぱりした。 不快感は拭えないものの過去は消せないので仕方がない。手の甲で口許を拭って、鞄から引っ張り出した鏡で 怪我の具合を確認すべく顔を写す。踏まれた記憶があったが目立つ程ではない。
鏡を仕舞い、今度はシャツを捲る。…気持ちが悪い。
自分の身体とは言え色の変わった腕は見ていて気分の良いものではないが、 長袖を着ていた分まだ被害は少なく済んだのだと無理矢理自分を納得させた。

次は足だと靴下を下げ見易いように水道に踵を掛けようとした私に、「なあ」。 再び掛けられた声に存在を忘れつつあった人物を思い出すも此方は彼に用など無いので確認作業を続けようとするが、 次いだ言葉にぴたりと動きが止まる。


「お前若菜の妹だろ?」

「誰?」
「だからわか、」
「そうじゃない。あなたは誰かって聞いてるの」


振り向いて今度はしっかりと彼の顔を映す。藤代、若菜と続いたのだからサッカー関係者か。
何度か巻き込まれたサッカー部の集まりに彼も居た可能性は高いが私の記憶には存在しないので会話をするのは初めてだろう。


「水野竜也」
「水野?……ああ、タレ目の男が異様に気にしてる外部入学の」
「何だよその情報。そう言うお前も外部だろ?」


彼の言葉に頷きながら数十分前に聞いた言葉が耳の奥で木霊する。外部の癖に。
つまり余所者があの男の彼女枠に収まったのが我慢ならないのだ。他にも私の態度や一年なのに云々とも言っていたけれど。


「藤代誠二の何が良いの」
「は?」


あんな性悪男の何が良いのか私には全く理解出来ない。
私の前に現れたタイミングからして、あの男は私が暴行を受けているのを止めることもなく隠れて見ていたのだ。
――嗚呼、思い出すだけで腹が立つ。


「…俺に聞くよりお前のが知ってんじゃないのか。彼女なんだし」
「ちっ」
「おい舌打ちすんな。…じゃなくて。その怪我藤代関連か?藤代に言い難いんだったらせめて若菜に相談と、ッ!」
「水野くん」
「…何だよ」


静かに、感情が冷えて行く。
雑音雑音雑音。今は何を言われても雑音にしか聞こえない。


「気に掛けてくれたことには一応お礼を言うけれどこれはあなたには全く関係のないことだからこれ以上口を挟まないで。 それから、私の前で二度とあの男の名前を出さないで。吐き気がする」
「…、…あの男ってどっち?」
「若菜だったら私の名前すら呼べないよ」


それだけ残し鞄を掴んで背を向けた。

歩くだけで色んなところが痛いけれど私はまだ歩けるし痛みもちゃんと感じられる。
だから、私はまだ大丈夫。


「取り敢えず性悪男は地獄に堕ちろ」




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