「…ガキ」


ころんと上履きの中で転がった画鋲に思わず声が漏れた。 この手の嫌がらせなら過去数回経験していて今更何の新鮮味もないし上履き自体が綺麗な分まだ軽い方だ。 寧ろ態々ご丁寧に“今日からあなたに嫌がらせをします”と宣言してくれているのだから心の準備が出来て有り難い。

これからは上履きは持ち帰って教科書類は鍵付きのロッカーに、ああでも鍵を増やされると面倒だからやっぱり全部持ち帰ろうか。

取り出した画鋲を下駄箱の上に置いて靴を履き換えながらこれからの算段を付ける思考の片隅でぼやけた輪郭が浮かんだが、 まだ原因が何なのか判断を下せる段階ではないのですぐに頭から消し去った。



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画鋲と目が合ってから数日、わかったことは幾つかある。

一つ、これは初日に気付いて拍子抜けしたのだがどうやら私を気に食わない人物の中にクラスメートは居ないらしく、 ある種の覚悟を決めて教室に足を踏み入れたが机も教科書も無事で私への態度もいつも通り、 更には一年の階を歩いていても私に剣のある視線を向けて来る者も居ないことから犯人像をある程度絞ることが出来た。

二つ、毎日飽きもせず空の下駄箱に手紙やゴミを詰めてはいても懸念していた机やロッカーに被害はなく、 一人部屋である寮も無事。 どうやら犯人は軽い嫌がらせは続けてもこれ以上事を荒立てるつもりがないようなので このまま此方が何の反応も示さなければ勝手に飽きて他の暇潰しを探すだろうと思っていたのだけれど―、

三つ、


「甘いわけじゃなくて単に頭が悪かったのか」


最近妙に人にぶつかることが増えた。
廊下を歩いていれば前や後ろから軽く押されて体勢を崩すこと両手では足りず、 終には階段を上っている際に擦れ違いざまに見知らぬ女子が肩にぶつかって来た為に危うく頭から落ちるところだった。
極力手摺側を歩くようにしていたので事なきを得たが、もしもあのまま私が落下していたら彼女はどうするつもりだったのか。
わざとじゃないと主張しても目撃者が居る限り怪我をさせた相手に謝罪を述べる流れになるのは当然で、 一度関係が出来てしまえば後に私が本格的に嫌がらせの犯人を捜し出そうとした際に彼女の名は容疑者リストに 赤字で載ると言うのにそこまで計算出来る頭が無いのは実に残念だ。

直接手を出して来るようになった為犯人が複数いることが確定したし、 此方がその気になればぶつかってきた瞬間に捕まえて顔を見ることも可能なのだが。…揃いも揃って頭が悪いんだろう。 その程度でよく入学出来たなと呆れたが、内部進学はちょっとした試験をパスすれば良いと聞いたことがあるのでこんなものかもしれない。







扉があるタイプの下駄箱は中身が増えた時に纏めて処分し、校内を歩く時は女子に気を付けてさえいれば良いので 多少の手間は掛かるが被害と呼べる被害もなく、正直油断していたのだ。完全に気を抜いていた。


「ひゃっ!、先輩大丈夫ですか!?」


重くなった髪からぽたぽたと落ちる水が煩わしい。
青色が近付いて来ていると気付いた時には既に避けるだけの時間はなかったので せめて隣に居た下級生には当たらぬようにと腕で払い、幸いにも払った先に人は居なかったので怪我人は出さずに済んだ。
私が上手く盾になれたようで小柄な彼女は少し濡れた程度で済んだのも有り難い。 彼女に何かあっては猫目の彼が黙ってはいないだろうから。


「えっと、何か拭く物…あ!ハンカチありま、っ先輩ここ怪我してます!バケツがぶつかった時に切れたのかも… うう、痛いですよね、でも何で急にバケツが降って来たんでしょう?落とした人もごめんなさいって言わないし…」


慌てる声を耳で拾いながら視線は素早く上を向き、二階の窓に複数の頭が引っ込むのを捉えはしたがそれだけだ。 もう少し早く反応出来ていれば顔を拝めたのにと息を落とすも、過ぎたことを悔やんでもどうにもならない。


「あたしピアノ屋さん呼んで、」
「大丈夫」


それよりも、と今にも駆け出しそうな彼女を短く制す。
“ピアノ屋さん”が猫目の彼を指すのは知っていたので事が大きくなるのを防ぎたいが故の制止だったが どうやら未だにランドセルが似合いそうな中学一年生の彼女は見た目に反して頭の回転はそう悪くないらしく、 それとも想像力豊かなのかきゅっと眉根を寄せてゆっくりと両足を元の位置に揃えると、 少量の血が滲む私の腕を綺麗に四つ折りにされたハンカチでそっと押さえ、常備していたのかポケットから 音符が描かれた可愛らしい絆創膏を取り出して丁寧に傷口を覆った。


「先輩ジャージ持ってますか?」
「…今日は体育が無かったから」
「んっと、それじゃあたし先輩達に見つからないようにこっそりお姉ちゃんに借りて来ます」
「中等部のあなたが人目を避けて私のクラスまで辿り着くのは難しいと思うけれど」


それにもう昼休みも終わるから気にせず戻るよう促そうとした刹那、ふわりと視界が暗くなり思考が停止する。
そうしてゆっくりと瞬きを再開させる私の耳に、すっかり記憶してしまった明るい声


「心配してくれてありがとな。でも後は俺が何とかするから大丈夫」


甘ったるさに鳥肌が立ちそうだ。
けれど小さな足音が遠ざかってから再び落ちた声には先程の柔らかさなど欠片もなく、


「何してんの?」


わしゃわしゃと髪を撫でるタオルの下でぶつかった眼は手付きとは裏腹に鋭く、 内緒話をする距離で彼は静かに言葉を連ねる。


「こそこそしてるのは気付いてたけど、なに、悪化してんじゃん」
「別に関係ないでしょう」
「最初に条件付けたのはそっちなんだからさー、こーゆー時は早めに言ってくんないと面倒なんだけど」
「原因が私の態度なのか藤代誠二の彼女と言う肩書なのかまだ見極めが済んでいない」
「…へー」


つまらなそうに息を吐いて近付けていた顔を離すと、今度はわざと周囲に聞こえるように軽やかな声を放つ。


「もー!あんま心配させないでよ。に何かあったら俺心臓止まっちゃうかんね!」
「…」
「ただの水みたいだし暑いからすぐ乾くと思うけど、どーする?俺のジャージ着る?」
「…要らない」
「そっか、サイズ違い過ぎるしまだ長袖暑いもんな。でもタオルは暫くこのままな?」


そう言って私の髪を拭っていた大きなタオルをばさっと広げ、 抱き寄せるように背中に両手を回してタオルを羽織らせた彼に眉を寄せる。一体どういうつもりだ。
私が周囲にこの男の彼女だと認識されているが故に嫌がらせを受けている可能性が大いにあるにも関わらず まるで“コイビトドウシ”のような振る舞いをされてはきっと上から様子を窺っているだろう犯人達を煽ることになる。 …この性悪男なら敢えてそうしている可能性も否めないと胡乱な目を向ければ、こつん、額に予想外の衝撃。


「ばーか、シャツ透けてんだよ」


そう言って重なった額を離した彼は、「これ以上は目に毒だろ」。 私の手にしっかりとタオルの両端を握らせると予鈴の音に急かされるようにグラウンドヘ駆けて行った。 ―そうか、次は選択授業か。小さくなる背中に鈍い頭でふと思う。

水を被ったのだから透けていることくらい予想は出来ていたけれどキャミソールを着ていた為にあまり気にしてなかったが、 成程、あの男も偶には嫌がらせ以外のこともするらしい。

一瞬でも、そう思った私が馬鹿だった。




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