「七時に学校集合な。…え?だってどうせ暇だろ?遅れたら罰ゲームだからよろー!」 ぷつりと途切れた機械音をこんなにも腹立たしく思ったことはあったろうか―否。 衝動的に携帯電話を叩き付けそうになったが、閉め切った部屋で長時間回し続けていた扇風機が自然に停止したことで蒸し暑さとは相反に頭は冷静さを取り戻した。 * * 「うわ、ほんとに来てる」 腕時計の長針が四を指し示す頃に響いた明るい声に最早憤りさえ失せた。 夏休みだと言うのに制服を纏った泣きボクロの男はどうやら部活終わりのようで、 指定した時間を大幅に過ぎているにも関わらず謝罪の一つも落とさずにひょっこりと上体を折り曲げて私の顔を覗き込むと、 「偉い偉い」 楽しそうな笑みを浮かべ私の頭上で手を弾ませる。 …ざわりと胸を巡ったこの気持ちの悪い感覚に何と名前を付けようか。 不愉快極まりない手のひらから逃れるべく頭をずらすも追撃は止まず、終いには母譲りの柔らかな髪に指先をくるりと絡めて遊び出す始末。いい加減叩き落としても良いだろうか。 振り上げようとした手は、けれど降って来た声に動きを止める。 「イチャついてんじゃねえよ」 「わっ!…もー何するんすか三上先輩ー。自分が彼女いないからってぐぇっ!?ちょ、ま、これまじ絞まってるから!!」 校内から出て来たタレ目の男に頭を叩かれ現在進行形で首に腕を回されている性悪男の苦しそうな声を 内心晴々した気持ちで聞きながら乱れた髪を整える。助けを求めるように名前を呼ばれたが自業自得だと聞き流す。 「こんばんは若菜さん。誠二に呼び出されたの?」 「…こんばんは笠井くん。その元凶が使い物にならないから代わりに質問に答えて欲しいんだけれど、どうして私は呼び出されたの?」 「え、あいつ説明もしてないの?」 「七時に学校集合遅れたら罰ゲームとしか聞いてない」 「うわー……。じゃあ結構待ったよね、ごめん」 「あなたが謝ることではない。それで質問の答えは?」 「ああ、今日祭りがあるんだよ。来る途中で浴衣の人見掛けなかった?」 「…何人か」 「学校から近いから中学の時も部活の後に毎年行ってたんだ」 「……帰る」 「え、ちょっと待って若菜さん!」 何が楽しくて人混みの中に飛び込むのか全く理解が出来ない。 そもそも毎年部活の人達と一緒に行っている祭りに何故私を巻き込むのか。嫌がらせにも程がある。 早々に退散しようと踏み出した足が三歩目でよろけることになったのは背後からの衝撃の所為で―、 「こーら、一人でふらふらしない」 耳朶を掠める吐息に寒くもないのに鳥肌が立ちそうだ。 身長差の所為ですっぽりと覆い被さっている体温に重なった部分が余計に熱を持つ。背中から響く鼓動が煩わしい。 「重い上に暑苦しいから離れて」 深く深く息を吐いて嫌悪感を隠すことなく告げれば文句を言いながらも身体は離れ、 けれど掴まれた左手がまた二人分の熱を持つ。…ああ、もう、頼むから勘弁してくれ。 私の切実な願いを聞き入れてくれる者は居らず、手を引かれるまま祭りの喧騒が近付いて来る。 ――嗚呼、嫌だ。祭り囃子と蝉の声が混ざり合って吐きそうだ。それなのに、―「、」。 重なった手のひらの温度に懐かしさを覚えるのは何故だろう。 「お前の所為で逸れちゃっただろ」 家族揃って祭りに来るのは何回目だろう。片手で易々と足りてしまうのは確かだけれど。 戦隊ヒーローのお面を斜めに付けた兄はとても嬉しそうに二人の手を引き、目に映る屋台をあれもこれもと強請っていた。 彼が両親と逸れてしまったのは確かに私の所為だ。 ぷつりと輪ゴムが切れて地面に転がってしまったヨーヨーを拾おうと立ち止まった私に気付いたのは兄だけで、 急にしゃがみ込んだ私に道行く人が躓いてしまう前に彼は私の手を掴んで立ち上がらせた。 もう少し遅かったらきっと押し潰されていただろう。けれど、 「それなら私なんか気にせずに行けば良かった」 「…かっわいくねーの!」 私に気を取られた為に兄が二人の背中を見失ったのは確かだが、選んだのは彼で私が望んだわけではない。 私の言葉に彼は目じりを吊り上げたが、繋いだ手を離すことはなかったし、私も、離そうとは思わなかった。 「、ヨーヨー釣りやる?」 「やらない」 「さっきからそればっかじゃん。折角祭り来たんだから楽しもーぜ」 「別に好きで来たわけじゃないし」 「まーた可愛くないこと言ってー」 「じゃあ帰って良い?」 「だーめ」 「……逸れた時は帰るから」 「良いよ、逸れないから」 一方的に繋がれていた手のひらが解けた刹那、指先を絡め取られる。 …これでは余計に逃げられそうにない。見上げた横顔は斜めにずらして付けられた戦隊ヒーローのお面に遮られて 表情を窺うことは出来ないが、見えない口許が緩やかな弧を象っていると思ったのは、何故だろう。 拭えない既視感に眉根が寄るけれど、「」。落とされた声に思考が溶ける。 「来年は浴衣着てよ」 褪せた想い出に色は宿らない。力を失った指先が繋がった温度に縋ることはないのだ。 |