のこと嫌いなの?その答えは今も変わらない。 胸の中を巡る感情にいつも押し潰されてしまいそうだった。 黒い顔をした怪物はいつも、毒々しい舌を垂らして鋭い牙を覗かせる。 いつから“こう”だったのかはわからない。恐らく俺にも無垢な天使みたいな時代もあった筈だが、気付いた時には既に俺は俺だったのだ。それは同時に、あいつとの関係も表す。 キッカケなどわからない。あったかすらも怪しい。 仲違いをした憶えもないのに、気付いた時には俺とあいつは“こう”だった。 無関心を装いながら無関心にはなりきれず、心の隅ではいつもあいつの存在を意識してしまうのだ。 他人の前で道化を演じるのは簡単だった。性に合っていたんだと思う。 だけどその度に向けられる冷やかな眼は、俺を無理矢理現実へと引き戻すのだ。 「さっきは教えてくれて助かった」 「私の部屋は無事ですか」 「ああ。飲んでねえから吐いてねえし」 「それは何よりです」 劣等感の塊だなんて、あいつに言われなくてもとっくに知っていたさ。 馬鹿の一つ覚えみたいにへらへら笑う「若菜結人」にまんまと騙される周りのやつらを馬鹿にしていても、 違う部分では俺は自分と周りを比べては空っぽな自分に絶望にも似た何かを感じ、持っているやつらを羨んでいた。 自分だけの何かが欲しかった。何でもいいから一番になりたかった。 誰と居ても何をしても満たされない。砂漠のように渇いたカサカサの心は、いつしか涙を流す術を失くしていた。 「お前、俺からあいつらも取んのかよ」 やっと見つけた安らげる場所。 空っぽの顔で笑う俺に気付きながらも何でもないように受け入れてくれた二人は俺にとって特別なのだ。 優越感に浸りたかった。見せびらかしたかった。 お前にはこんな存在はいないだろうと、あいつより俺が上なのだと思いたかった――ことも、あった。 でも今は、こわい。 だってあいつは俺が欲しくて欲しくて堪らないものを目の前にして、あっさり要らないと捨てるのだ。 必死に掻き集める俺になど目もくれず。 だからもう見せたくもない。大事なものは、場所は、決して侵されぬように。―それなのに、なんで、 「取るなよ。どうせすぐ捨てるんだ。なら最初から手ぇ出すな」 無機質な眼から感情は読めない。 薄く開いた唇が何かを紡ぐ前に、俺は耳を塞ぐべく背を向けた。 …違う、違うよ。あいつを嫌いだったことなんて一度もない。嫌いではないんだ。 そんなものよりこれはもっと淀んでいて、名前を付けることなど出来ないんだ。 「…何なの、」 私がいつ彼の物を盗ったと言うのだ。 あいつらとは十中八九彼の親友達のことだろうが、私は彼らとの関係を進展させるつもりはこれっぽっちもないし、これからも極力関わらない方向で行くつもりだ。 恐らく彼の親友の片方と言葉を交わしているのを聞かれたのだろう。 礼を言われたので答えただけで、私はただ人体に害こそ為さないが口に含めば反射で吐き出すだろう液体によって 私の部屋が汚されていないかを確認したかっただけだ。…それなのに何故? 昔からあの人の言動は私の理解の範疇を易々と越えて行くが、今のはいつになく意味が解らない。 正に、理解不能。 理解出来ないものの答えを追い求める程私は探究心旺盛ではなく、 試験のように必ず正解があるものなら未だしも、変化と矛盾を繰り返す人の心など理解らないならそのままで良い。 答えなど知らなくて良いのだ。面倒事からは目を逸らし、それで他人に糾弾されようと知ったこっちゃない。 どうやら私は鈍感らしいので世間一般で言う“酷い言葉”を投げられても大して心は揺れないのだ。 ―けれど、曲がりなりにも血縁者、それも最も私と近い存在である彼からあのような言葉を浴びせられてはいつものように聞き流すのも些か難しい。 何故なら私と彼はもう暫く同じ屋根の下で生活をするのだから。 休暇が明けるのはまだ先だ。その間嫌でも数回は顔を合わせることになろうあの人に、 その度に剣呑な空気を向けられるのは勘弁願いたい。だって疲れる。――それに、 「自分は捨てることすらしないくせに」 いつだってあの人は私が触ることさえ出来ないものを両手いっぱいに抱えていて、それなのに“もっともっと”と新しいものに手を伸ばす。 増えた分だけ抱えきれない何かがぽろぽろと落ちて行くのに気付こうともしない。 失くしたことにも気付かないということはつまり最初から要らなかったということだ。 それなのにあの人は変わらない。何度でも何度でも手を伸ばす。 他人ばかり羨んで自分が持っていることに気付かない。そうして終いには私まで恨めしい?冗談じゃない…! 幼い私が何度練習しようとも役目を放棄した表情筋はあの人のような笑顔を作ってはくれなかったし せめて他人を不快にさせないようにと思ってもどうしたってあの人のようには振る舞えない。 だって私には何もない。人を惹き付ける笑顔も他者からそれを引き出す話術も全部。 だから私はあの人を真似ようと思うことを止めたのだ。 この選択をしたのは随分と幼い頃だったが、幼いながらに私とあの人は全く違う生き物なのだと本能で悟ったのだろう。 出来ないことは最初からしない。世間はこれを逃げと呼ぶが、私にとっては諦めだ。望んだところで叶わぬと幼い頃に知っただけ。 千切れる程伸ばしても届かないものに手を伸ばし続ける程愚かではなく、強くもなく、 * * 「出掛けるの?」 「そうですけど」 「誰かと待ち合わせ?」 「…違いますが」 「それって急ぎ?」 「……何故?」 「俺達もそろそろ出るんだけど、良かったら一緒に行かない?部屋貸してくれたお礼に昼でも奢るよ」 「お気持ちだけで結構です」 「遠慮しないで。ね、一馬」 「おう。結人お手製液体Xのことも教えてくれたし。あれ知らなかったら普通に飲んで死んでた」 「私が心配したのは私の部屋であってあなた達ではないのでそれに関するお礼は必要ありません」 「理由がどうあれ助かったのは事実だしどう受け取るかは俺達の勝手だと思うけど」 「それこそそのお礼を受け取るかは私の勝手かと」 「強情だね」 「何とでも」 「あー…無理に、とは言わねえけど、さ。折角実家戻ってんのに俺らの所為で自分の部屋使えなかったじゃん? やっぱ悪かったって思ってて、…だからお礼ってよりお詫びっつーか、」 困ったように、申し訳なさそうに眉じりを下げ口許を歪に緩めたツリ目の人の言葉に 切れ長の目をした方がその涼しげな目許を緩める。…私に折れろと? 玄関での攻防は私が逸早く外に出ていればそれで終わった筈なのだが如何せん隙がなくて動けなかったのだ。 第一逃げようにも先に声を掛けて来た黒髪の男が私の鞄を掴んでいるのでどうしようもない。いい加減離せ。 何度か振り払おうと引っ張ってはいるがビクともしない。その細腕の何処にそんな力が?眉を寄せたところで状況は変わらないのだけれど。 「つまり自分達の罪悪感を減らす為に私に付き合えと?」 「何とでも」 「英士。やっぱ知らないやつと一緒に飯とか嫌だよな、無理言ってごめん」 「何言ってるの一馬。初対面でもあるまいし知らなくはないでしょ」 「や、でもこんな喋ったの初めてだろ。お互い顔と名前がわかる程度、で、……俺らの名前知ってる、よな?」 「知ってるも何もたった今目の前で互いに呼び合ってたじゃないですか。流石に数秒前のことは忘れませんよ」 「あ、そっか。わり」 「別に。…いい加減鞄離してもらえます?」 「ああ、そろそろ良いかな」 あっさりと解放された鞄を持ち直し外に出るべくドアノブに手を伸ばすがそれは遠ざかり、 開いたドアの隙間からまず目に入ったのは見慣れたふわふわの茶髪で、 「お帰り結人」 「お疲れ。ちゃんと買えたか?」 あんた外出てたのかよ。 一瞬で凍りついた身体は視線が重なった瞬間微かに震え、そしてまた固まった。 |