寮生活と言う酷く甘美な響きは私が進学先を決める際に大きな決め手となった。
両親と不仲なわけではない。愛情を注がれていたことは知っていたし、私も決してあの人たちを嫌ってはいない。 ―けれど時に言葉は表裏一体ではなく、“嫌いではない”からと言って必ずしも“好き”にはならないのだ。

恐らくこれは無償の愛を注いでくれる存在への一種の甘えなのだろう。

親とは安心感を与えてくれる存在であると同時にどうしようもない嫌悪感を与える存在だと言うのが私の認識である。
そして、それを当人達には決して告げないと決めている。
何故なら私はあの人達を嫌ってはいないから。――それでは、嫌いではない目の前の人物のことはどうだろうか。


「何で居んの」
「一部を除いた寮生は長期休み中帰省することになってるから」


口には出さず例を挙げるなら多くの功績を残している部活動に所属するどこぞの性悪男はこの一部に含まれる。
そして文武両道を掲げる武蔵森、功績を残している部が一つなわけもなく
全寮制であるサッカー部以外の運動部に所属している寮生も勿論一部に含まれているし、
他にも毎日練習がある文化部や帰省出来ない理由のある者も同じ。

原則として帰宅部は許されない武蔵森に籍を置く私が所属しているのは活動数の少ない書道部なので一部に含まれる筈もなく、 早々に荷物を纏め寮を後にし、何の感慨もなく数ヶ月ぶりの我が家を視野に入れたところで数メートル先の茶髪と目が合い互いに足を止めて今に至る。
帰宅早々鉢合わせするとは思ってもいなかった。すっと表情を殺した彼も、私が帰省するとは思ってもいなかったのだろうが。


「部屋ないけど」
「それは既に使える状態じゃないのか今から使えなくなるのかどっち」
「今から」
「…そう。その二人は泊まるの」
「お前が客間使え」
「別に何も言っていないけど」


彼を挟むように並んでいただろう二人は私に気が付いた時点で彼より一歩後ろで立ち止まり沈黙を守っていたが、 何処までも淡々とした響きの中に投じられて流石に居心地が悪かったのか一人が微かに肩を揺らした。 残る一人は表情を変えることなく私達の会話が終わるのを待っているようだ。

短く息を吐き捨てて食い込んだ鞄の持ち手を肩に掛け直す。
汗で張り付いた髪も追い掛けてくる蝉の声も目の前に居る見慣れた男も全て煩わしくてならない。
何より射殺すような陽射しから一刻も早く逃れたかった私は躊躇することなく数メートルの距離を埋め 家の前の簡易な門を開け玄関を目指すが、―「おい」。 不機嫌そうな声が投げられたことにより嫌々ながらも再び足を止め首を回す。


「部屋は好きに使えば良いあなたの友人が居る間私は部屋には近付かない 他に話があるのなら家に入ってからにしてくれるこれ以上外に居たくない」


投げ遣りな態度を隠すことなく一息に告げ、反応を待たずに背を向けて一足先に家へと入った。







「相変わらずみたいだね」


わんわんと喧しく響く蝉の声を一蹴するような、まるで暑さを感じさせない声を右耳が拾う。


「今日帰って来るって知らなかったのか?」


左耳が拾った声の響きは何処か遠慮がちで、それは多分日を改めた方が良いんじゃないかとか思ってるからだ。

俺とあいつの関係を知ってる二人は俺があいつの前で“こう”なのも勿論知ってて、
だから英士が溜息を吐いたのも一馬が眉を寄せたのも今更俺の態度に驚いたわけじゃない。

ぐるぐると渦を巻く感情を一息で呑み込んでさっさと蓋をしてしまうのは簡単だ。


「あいつに愛想がねえのは昔っからだかんな。ま、そんな顔合わせることもないだろうし気にせず泊まってけって」


「暑いからさっさと入ろうぜ」と二人を促して鍵を開ける必要のなくなった扉に手を掛けて家に入る。
碌に靴も揃えずに階段を上り後ろを気にすることなく歩くのは、俺があいつらの家を知り尽くしているように 勝手知ったる我が城を今更あいつらに案内する必要がないからだ。 その証拠に、俺が部屋に入った数秒後に背後から響く声。


「お前いい加減片付けろよ」
「足の踏み場もないね」
「はーあ?あるだろほらっ、そこもそこも!」


辛うじてフローリングが見える部分を指差せば落ちてくる息が二つ。…てめえらそんなとこまで仲良しか!
キッと一睨みすればまたしても揃って顔を逸らされた。


「繋げりゃ荷物置く場所も野郎二人が雑魚寝するスペースだって出来るっつの」
「あっちが片付いてるからでしょ」
「うっせ」


どかっと荷物を下ろして隣の部屋との境目である壁に指を引っ掛け、そのままスライドさせれば狭かった部屋が倍の広さに早変わり。
仕掛けは簡単。二つの部屋は元は一つの子供部屋で、スライド式の壁によって二つに分けられていただけなのだ。 新居を建てる際 設計士に頼んでこの仕組みにしたらしく、 成長したらそれぞれの一人部屋に出来るようにと元から扉は二つあったしレールも用意されていた。

高校に入学してから使われていないあいつの部屋は母さんが定期的に掃除をしているので埃が溜まっている心配もない。
部屋を二つに分けてからも何度か仕切りを開けたことはあるが、 それは全て一馬と英士が泊まりに来た時であいつが部屋に居る時に繋げたことは一度もない。 そしてそれは、この先も変わることはないだろう。



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*
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仕事の都合で両親の帰宅が遅いのは昔からよくあることだ。
記憶を辿ったところで揃って食事をした回数は少ないがそれに関して特に何を想うこともない。
ただ、帰宅が遅いお陰で今日のようにあの人の友人が泊まりに来た際一緒に食卓を囲まずに済むのは私にとって至極有り難いことであると思いはしたが。

同じ家に住んでいても顔を合わせず生活することは可能なのだから、数時間滞在する人間と顔を合わせないことなど容易いのだけれど、


「今良い?」


部屋に訪れられては此方には成す術もない。
食事も風呂も二階が騒がしい内に済ませていたし極力この部屋―自室ではなく客間―から出ないようにしていた私に 突然の訪問者が現れたのは陽も十分落ちた22時過ぎ。


「ああ、お風呂貰ったよ。ありがとう」
「いえ」
「次は結人が入ったから、話すなら今だと思って。起きてて良かった」
「…手短にお願いします」
「そうだね。気付かれると厄介だし。――藤代の彼女なんだって?」


襖を開け部屋の中にいる私とフローリングの廊下に立つ彼の視線が交わる。 じり、と親指が畳みを擦った。


「どうして」
「それは、どうして知っているのか、それとも、どうして聞くのか、どっち?」
「後者で」


憶えのある言い回しだが今は流そう。

彼が私と藤代誠二の関係を知った経緯など考えるまでもないのだから敢えて問う必要もないだろうに。
訝しげに眉根を寄せるも見上げた先の彼は気にした素振りも見せない。 …そもそも何度か顔を合わせたことはあれど会話らしい会話をした記憶がないのに今になって態々出向いてくるなど一体どういう了見だ。


「そんなに警戒しないでもらえるかな。ただの純粋な疑問だよ」
「……その肩書きは間違ってはいないけれど正しくもない」
「どういうこと?」
「残念ながら時間切れ」


眉を寄せた彼に、彼の背後を一瞥して見せる。その動きで理解したとばかりに彼は息を吐いて後ろを振り返った。


「早かったね」
「シャワーで済ませた。―で、何してんの」
「常識的な行動をしただけ」


季節を忘れるような冷やかな視線に臆することなく応えるも視線が逸れることはない。…メンドクサイ。
何度目かになる息を吐き捨てたとて何一つ軽くなりはしない。


「結人、俺が質問に来たから答えてくれてたんだよ」
「……ふーん。ま、かじゅまが寂しがるから早く上戻ろうぜ」
「そんなに引っ張らなくても自分で歩けるよ。…急に悪かったね、お休み」
「お休みなさい」


人並みの常識は持ち合わせているので掛けられた声には応えるが、向けられた視線に応える必要はない。





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