結人のこと嫌いなの?問うたのは誰であったか記憶に残っていないが私は私が何と答えたのかははっきりとわかるのだ。 憶えているのではなく、“わかる”。何故なら過去の私も今の私もあの人に抱く感情が希薄であることに変わりはないのだから――。


「そんなに嫌いなの?」
「嫌い」


先程と寸分違わず告げれば猫目の彼はいよいよ困ったように眉を下げた。
夕暮れ時の校門で繰り返される押し問答にはどちらも嫌気が差しているのだが如何せん性悪泣きボクロが 関わっているので互いに折れるわけにはいかず、刻々と過ぎ行く時間に吐き捨てる息さえ底を尽きた。

分が悪いのは此方の方だ。そっと手首に目を落としまた一つ横にずれた長針を一瞥しては口の中で舌を打ち鳴らす。


「いい加減鞄を返して」
「返したら帰るだろ?」
「当たり前」
「うん、嘘でも帰らないって言わないところが若菜さんだよね」
「見え透いた嘘に意味はないので」
「…そんなに嫌い?」
「何度聞かれても変わらないよ」
「別に若菜さんに歌えって言うわけじゃ、…あ、うん言いそうな奴はいるけど流石に無理強いはいないだろうし、 その場にいてくれるだけで良いんだよ?」


「勿論お金はこっちで払うから」―尚も食い下がる彼に瞳を尖らせれば何かを悟ったのか大袈裟に肩を竦め、 ぽつり、息を落とす。


「うんごめん。その場にいるのが嫌なんだよね」


全く以てその通りだ。何故私がよく知りもしない彼らの部活仲間に混ざりカラオケに行かなければならないのか。 例え知人だとしてもご免被る。歌には別段興味はないし、狭い部屋で大音量の音を聞くことなど苦痛でしかない。
わかっていながら彼が私を解放しないのには何らかの意味があり、されど、彼の事情など私には関係ないので やはり私が返す言葉は変わらず、


「帰って良い?」
「鞄置いて?」
「…」


財布や携帯が入ってはいるが寮生活である身故に半日くらい手許になくてもどうにでもなる。 ―が、個人情報はどうなるだろう。常識人である目の前の彼ならば問題はないものの 恐らくあの男が彼から何らかの手段で奪い取ることは目に見えている。
犯罪は犯していないので見られて困る物はないが、態々あの男に見せたいとも思わない。
元凶である性悪男が不在の内に事を終わらせたいのだが個人情報漏洩の危機を前に動くに動けないのだ。


「若菜さんは誠二のことどう思う?」


彼に抱えられている私の鞄へと注いでいた視線を持ち上げれば、出来過ぎた笑みが静かに私を見据えていた。


「質問の意図がわかり兼ねる」


以前一学年上のタレ目に似たようなことを聞かれたがあの上級生とこの同級生は違う。
眉一つ動かさず言葉を返す私に彼は少しだけ口角を下げて、けれど変わらず微笑みを保ったままゆっくりと口を開く。


「時々怖くなるんだ。―あいつは底が知れない」


彼は云う。不安、怯え、
どうしてこんなにも違うのか。自分の足元が覚束ない。見えるのに届かない。


「結局俺はあいつに何もしてやれないのかなって、」


言葉の途中で苦笑に変わった表情は実に苦々しく、吐露する声は棘となり彼自身へと突き刺さる。
自虐趣味でもあったのだろうか。そんな顔をするのなら口になどしなければ良いのに。


「―それで、あなたの意見を踏まえた上で私が彼をどう思っているのかを知りたいと」


空の淵に落ち行く光が視界を赤く染める。
すっかり目線を落としてしまった彼が、小さく頭を揺らした。


「面倒な人。目の上のタンコブ。――」


淡々とあの男への恨み事を並べていけばぽかんと瞳を膨らませた猫目と目が合う。
あの男もこれくらい素直なら良いものを。


「私にとって藤代誠二はただの厄介な男でしかないよ。私とあなたは違うから、 例え同じようにあの男に面倒事を押し付けられようと苛立ちを覚えるだけで恐怖にはならない」

「…、……誠二がなんで若菜さんを選んだのかちょっとわかったかも」
「とんだ貧乏くじなんだけど」
「そう言わずにこれからもうちのエースをよろしく」
「保護者はそっちでしょう」
「今まではね。でも今は、あいつ以上に目を離せない子がいるから」


―どうやら時間切れのようだ。
柔らかく双眸を細めた彼の視線を追えば、中等部の制服を着た女子生徒が泣きボクロの男と談笑を交わしながら此方に歩いて来るのが見えた。


「ごめん。若菜さんがいないと彼女が誠二の質問責めに遭うと思うからさ、やっぱり帰してあげられないや」
「つまり笠井くん、私はどうなっても良いと?」
「そういうわけじゃないんだけど、若菜さんなら大丈夫かなって」
「あの男に絡まれて大丈夫な術があるのなら是非教えを乞いたいけれど」
「いつも流してるじゃん」
「好んで雑音を聞きたがる特殊な人間に見える?」
「雑音って」


何が楽しいのか肩を揺らす彼に肺から少量の二酸化炭素を押し出す。
彼が時折中等部に足を運んでいるのは知っていたが十中八九あの彼女に会う為だったのだろう。
昼休みに教室を出て行く背中を決まってあの男が冷えた視線で追っていたことも知っていたが、ついに接触するにまで至ったか。


「おっ待たせー」


にこやかな表情で足を止めた泣きボクロの男は、猫目の彼と私とを交互に見てはまた満足そうに口角を上げた。
その隣で立ち止まった彼女が此方を見て頭を下げたので軽く下げ返す。


「偉い偉い、もちゃんと待ってたじゃん」
「待っていたつもりは微塵もないから」
「なーに言ってんの。あ、タクの鞄こっち」
「もう返して良いんじゃない?」
「彼女の荷物持ってやるだけじゃん」
「押し付けがましい親切はいらないから返して」
「照れちゃってー。んじゃ先輩達もう行ってるし俺らも行こうぜ」


言葉尻とともに掴まれた手首に眉を顰める最中降る声は小さく、無駄に騒がしい日頃の声音とは別の響きを孕んでいて、


「隣にいてくれるだけで良いから」


視界の隅で残る二人が楽しそうに言葉を交わす。
掴まれた手首が冷えて行く感覚にまた一つ息を落とせば、私はただ引き摺られるように重い足を動かすのだ。


嫌いではないよ。考えるまでもなく口から零れた返答にその人は恐らく微笑んだのだろう。 そして再度告げたのだ。「やっぱり結人とは似てるね」―と。




*8