性悪男の所為で兄に理不尽な怒りをぶつけられるという出来事はあったがあれ以来音沙汰はなく、 相変わらず何かと騒がしい周囲を意識的に遮断することで私は私の平穏な日々を保っている。


「あ、」


日本史では現在レポート作成が課題になっており授業は自習に近い形になっている為 資料探しと称して図書室で読書に耽る時間に充てている私は今もこうして奥まった場所で本を読み進めていたのだが、 静かな空間に割って入った声があまりにも近い場所から聞こえた為にページを捲る指が一瞬停止した。
然しながら覚えのない声であるし何よりいよいよ真犯人が判るという状況で読書を中断するなどご免故に聞かなかったことにしてページを捲る。


「おい無視すんな」
「…」
「聞こえてんだろ。さっき手止まったし」
「……」
「言っとくけどここに俺とお前以外誰もいねえからな」
「………何か」
「やっとかよ」
「覚えのない声だったもので」
「他に人いねえのわかってただろ」
「見えない友人でもいるのかと」
「…聞いてはいたがムカツクやつだな」
「そうですか」


視線は文字を追ったまま声だけを投げる私の態度にどうやら痺れを切らしたらしい。


「犯人、教えてやろうか?」


掠れた低い声、耳に掛かる息に私は迷わず持っていた本を顔の横へと振り上げた。
…残念ながら手応えはゼロ。


「あっぶねえな!読書家なら本は大事にしろよ」
「私物ではないので」
「そういう問題じゃねえだろ」
「そうでしょうか」
「…イイ性格してんな。おい、読もうとしたらばらすぞ」
「…」


先手を打たれたので仕方なく本を閉じて彼を見る。
今までの学校生活で培ったスルースキルを以てしてもあの一言は効いたのだ。


「…ふうん。藤代の女っつーからどんなのかと思えば、…へーえ?」
「何か」
「いや、別に。つーかお前授業は?」
「自習です」
「あっちで騒いでんのお前のクラスだろ。堂々とサボりか」
「やることは終えているので問題ないかと」


そもそもそちらはどうなんだと視線で問えば「俺んとこは自習」と返された。
言葉の選び方に何やら感じるものはあるが元来の彼の性格が関係しているようなので流すことにしてそれよりも 現状を打破すべく口を開く。


「もう良いですか」


舐めるような視線にも厭きてきた。 用が済んだのなら去ってくれと溜息交じりに告げるが何故か彼は口許の笑みを濃くして私の隣の椅子を引いた。…勘弁してくれ。


「お前名前は?」
「答える必要がありますか」
「俺はお前に聞いてんの」
「…若菜です」
「俺は三上。お前の彼氏には中学ん時から手え焼かされてんぜ」
「……ああ、誰かと思えば口煩く暴力的な司令塔の三上先輩でしたか」
「てめえ、」
「聞かされたままを口にしただけなので怒りの矛先はあなたのところのエースストライカーとやらにどうぞ」
「…お前さっきの根に持ってんだろ」
「いいえ。今現在進行形で読書を中断させられていることに不満は抱いています」
「可愛くねえな」
「そうですか」


彼に可愛いと思われたいわけではないので問題ない。 吐き出すように応じれば目の前の彼は少しだけ表情を変えた。


「なあ、何であいつと付き合ってんの」
「答える必要性を感じません」
「お前に無くても俺にはある」
「何故?」
「あれでもうちの大事なエースストライカーだからな。女の事でプレーに影響でもあっちゃ困る」
「随分と過保護なんですね」
「うっせえ」
「そもそもメンタルが弱そうには思えませんが」
「…さっさと答えろ」


苛立ったように机を指で叩く様に優越感に似たものを得ることが出来たのでこの辺りで口を割ろうか。
そもそも私にとって藤代誠二との関係は別段隠し立てすることでもないのだ。


「消去法です」
「…はあ?」
「だから消去法ですよ。どちらに転んでも面倒の二択を迫られたのでより被害が少ない方を選んだまでです」
「……お前、藤代のこと好きなんじゃねえの?」
「好きか嫌いかで選ぶのなら後者で」
「それ以外なら?」
「どうでも良い」
「どうでも良いって…」
「本来好きや嫌いの感情を持つ程の関係じゃないので」
「それ、仮にも彼氏に言う言葉かよ」
「仮なら良いんじゃないですか」
「は、振りなの?」
「それに近いと思いますけど。飽きるまでだそうですし」

「私を問題ありだと判断したのならどうぞ別れるよう言ってください寧ろそうしてください」

「…苦労してんのな」
「騒がしいのは好きじゃないので」


はっきりと言いきれば彼は一瞬目を瞠って、それから唐突に笑い出した。
…人の話を聞いていたんだろうか?五月蠅いから他所でやってくれないかと息を吐けば第三者の声が割って入った。


「図書室では静かにしていないと駄目だろう」
「よう渋沢」
「探したぞ。今日の、……すまない。邪魔したか?」
「いいや。―若菜、うちのキャプテンだ。お前も挨拶しとけ」


何故?眉を寄せ視線で問うも答えより先に別の声が降る。


「そうか、君が藤代の彼女なんだな。若菜…さんだったか?」
「はい」
「知っていると思うがうちは練習が多くて、特に藤代は部活以外でもサッカーの代表に選ばれているから 中々一緒にいられる時間を作るのが難しいとは思うが、気の良いやつだ、よろしく頼むよ」
「…はあ、」


首を捻りたい箇所はあったが如何にも“イイヒト”な彼に言うことではないので思うに留め それ以前に何故彼にこうも丁寧な言葉を掛けられねばならないのかという疑問も飲み込んで曖昧な返事を口にしておいた。 が、約一名不満だったらしい。


「何だその適当な返事は」
「こら三上、」
「いんだよ渋沢。こいつには一度しっかり上下関係について叩き込んどくべきだ」
「余計なお世話」
「あ?」
「―と、世間では言いますよね」
「…てめえ、」
「三上」
「……ったく、渋沢に感謝しろよ」
「すまない、こいつも良いやつなんだが…」
「そうですか」


心底どうでも良いと思いつつ相槌だけを打っておく。
フォローよりも彼を連れて行ってくれないだろうか。…いや、直に授業も終わるし私が席を立とう。

浮かしかけた腰はけれども頭の上から重力を加えられることで容易く椅子へと沈んだ。


「…何か」
「お前そればっかか」
「…」
「はあ。―何かあったら俺か渋沢に言え」
「…何か、とは?」
「わかってて聞くな馬鹿。良いか、俺んとこ来いよ」
「世話好きですね」
「うっせ」


雑ではあるが乱暴ではない手付きで私の頭を撫でた彼は「行くぞ渋沢」と声を掛け立ち上がったが再び私の顔を見て思い出したように一言。――「あ、そうだ」。


「その本、最初の数行で止めたんだわ」


追い討ちを掛けるが如く耳元で囁いた声が言葉に変換されたと同時に腕を振ったが非常に残念なことにまたしても空振りで終わった。腐れ三上。
私の脳内でありとあらゆる暴言が飛び交ってる間に今度は落ち着いた低音が降る。


「もしかして、――」


私の顔を見て“イイヒト”代表の彼が唇の形を変えようとした時 数歩先のハッタリ男が彼の名を呼んだ為に続きを聞くことはなく、


「―いや、すまない。何でもないよ」


一般受けの良さそうな笑みを落として彼は名を呼んだ男の許へと足を進め二人連れ立って私の視界から消えた。


「……何だったの」
「何が?」


ぽつりと零れた言葉は誰に拾われることもない筈だったが予想外にも面倒な男に拾われた為に独り言にはならなかった。
一体いつからいたのやら。私を見る顔には相変わらず目に痛い笑顔。


「先輩達と何話してたの?」
「別に」
「俺のこと?」
「そうですね」
「…ふうん、」


一瞬尖った双眸は彼の人達が消えた方へと向けられたが此方を振り向いた時にはもう元に戻っていた。
厄介事はご免なのでこれ幸いと気づかなかったことにする。


もうレポート終わったの?」
「先に言っておくけれど見せないよ」
「ええー!何でよケチ!」
「丸写ししたところで私のを写したことがばれて課題が増えるだけでしょう」
「そこは上手くやるしー」
「そう」
「ねっお願い!」


両手を合わせて首を傾ける泣きボクロの男に放つ言葉は一つ。


「もう提出したよ」




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