あの人の傍に居ながらあの人に笑顔を向けられたことのない唯一の人間は私しか存在しないと思う。 昔から両親を前にしても頭に載せている気紛れな生き物は私を前にするとひょいっと何処かへ去って行くのだ。 時折向けられるのは色のない瞳で、私を視界に入れているのに見ていないような、それ。 小学生の頃、割と酷い嫌がらせを受けていた時期がある。 今でも鮮明に憶えているのが書道の時間の一幕。 担任が席を外した一瞬に起こったそれは嫌がらせをしてくるリーダー格の人物をあしらう為に私が放った一言がキッカケだったと思うけれど 如何せんその人物に興味がなかったので何を言ったのかは記憶にないが、いつも通りの変化のない表情と淡泊な口調が彼女の癪に障ったのだろう。 私の頭上だけに独特な匂いの黒い雨が降り生まれながらの明るい髪が斑に染まった。 その授業が一日の終わりのものだったこともあり、私は静まり返った教室で無数の目を向けられた中 手早く帰り支度を済ませ教室を後にしたのでその後のことは知らない。 ただ、早退する旨を伝える為立ち寄った職員室で何を仕出かしたのかしょっぴかれていた兄に向けられた凍るような眼は今でもふとした時に脳裏を翳むのだ。―――現在進行形で同じ温度の視線を向けられていれば尚のこと。 「何で俺の世界に入ってくんの」 突然何を。ついに頭でも湧いたのか―とは言わない。 椅子一つ開けて隣に座った私達は互いに前を見てはいるが窓硝子越しに映った互いの姿を視界に入れている。 小学校まで記憶を遡っても登下校をともにしたことのない彼が校門前で態々私を待っていたのだからそれ相応の理由がある筈で、何よりこの考えを裏付けるように私がこの人の呼び出しに応じる際に目撃者の誰かが漏らした「藤代」の単語に 外面だけは完璧な男の表情が一瞬歪んだともあれば後はもう言うまでもあるまい。 「お前が誰と何をしようがどうでも良いけど、よりによって何であいつ?嫌がらせか」 矛盾していると指摘しそうになる口を理性で止め代わりとばかりに息を押し出す。 他校生である彼が何故知っているのか、そんなもの口の軽い性悪男経由に決まっている。 彼らがとあるスポーツで繋がっていることは知っていたので何れ兄の耳にも入るだろうとは思っていたが…早過ぎやしないか。 常日頃笑顔を振り撒く男に対し湧き上がった感情は実行に移せば法により裁かれるのは私なので胸の内に深く深く沈めておくが取り敢えず、 あの泣きボクロいつか殴る。 決意を新たに嫌悪感を隠そうともしない血縁者を改めて視界に映し、呪うように吐き捨てる声に温度はない。 「好きで今の関係を築いたわけじゃないから苦情の類は全て藤代誠二に言って。第一あなた達が知り合いだからと言って私があなたに何かを要求することはないし、今まで通り互いに無関心であれば良いだけでしょう」 自分ばかり迷惑しているという態度は不愉快だ。厄介事ばかり運んで来る男への苛立ちも相俟って僅かばかり眉を顰める。 そもそも藤代誠二は私と若菜結人の関係を知っているのだろうか? この男が他人に私のことを積極的に話すとは思えないし私も告げていないことを思えば知らない可能性が高いだろう。 私達が全く似ていない双子だと知っている他人はいるが彼らが口を割るとも思えないのだから尚更。 …ああ、そうか。――こんな時思うのだ。この人と私は全くの別物なのだと。 「それともあなたの居場所はこの程度で崩れるほど不安定なの」 我ながら最上級の皮肉を浴びせられたと思う。その証拠に目の前の顔から唯一貼り付いていた感情すら消えた。 「……お前のそういうとこ、まじムカツク」 昔から表情の動かない私を「お人形みたい」と揶揄る人達がいたが私に言わせれば若菜結人こそ人形だ。 ぴんと糸を張った操り人形。 他でもない若菜結人により操られた「若菜結人」は息をするのと同じように道化を演じるけれど、 一度その糸が切れてしまえば笑顔一つまともに作ることが出来ないのだから実に面倒な生き方だと思う。 「私は自分の立ち位置を護る為に他人の対人関係にまで口を挟む人間に辟易する」 「双子なんだから他人じゃねえだろ」 「自分以外の人間は他人でしょう。それにこういう時ばかり血縁関係を持ち出すのはどうかと思うけど」 「前から思ってたけどお前に可愛気ってねえの」 「生憎持ち合わせはないしあったとしても相手は選ぶ」 「選んだとこで上手く使えねえだろ。お前、頭は良くてもバカだもんな」 「感情の殆どを劣等感が占めている人よりはマシじゃない」 窓に映った無表情の男の手の中で紙コップがぐにゃりとひしゃげた。 軽快な音楽と人の声で賑わう店内でこの場所だけが殺伐とした空気を纏っているが声を潜めると言う程ではないにしろ椅子を一つ挟んだ距離までしか届かない冷えた声は周囲の空気を凍らせることはない。 互いに沈黙を選んだことにより動きさえ止まった空間に再び動きをもたらしたのはテーブルに載せた携帯で、 自己主張するようにチカチカと点滅するそれを開けばディスプレイに表示された名前に自然と眉が寄った。 「……何か」 正直応じたくはなかったが以前気付いていながら放置したところその後何度も電話が掛かってきたことで嫌々ながら学習したのだ。 この行為は私と会話がしたいのではなく自分の暇を潰したいが為の身勝手なものなので 多少ずさんな応対をしたとしてもあの男の愉しげな口調が崩れないことも理解している。 「男に連れられて帰ったのは事実だけどあなたはお呼びじゃないから大人しく課題でも片付ければ」 どうやら部活が中止になって暇を持て余していたところ人伝に私のことを聞いたらしい。 暇を持て余した男の脳内では元彼によりを戻したいと言い寄られた彼女をヒーロー宜しく助けに行くシナリオが出来上がっているようだが 迷惑以外の何物でもないのでご免被りたい。ドラマのようなコイビトゴッコがしたいのなら他を当たれ。 今の状況を作り出した元凶の暇を潰してあげる程お優しい人間ではないのだ私は。あんな男いっそ暇に潰されてしまえば良い。 然しながら毒素を吐き続ける脳内は機械越しの明るい声により中枢を侵された。 「…、何それ止めてくれない吐き気すら覚える」 私が彼を呼ぶ際の「あなた」は単なる二人称であってそれ以上でも以下でもない。 況してや結婚関係にある女が男を差す際のそれではないので本当に止めて欲しい気持ちが悪い。 「用がないなら切るけど。あな、……誠二が暇で死んだとしても私の心は少しも痛まないから他を当たって」 がたり。椅子一つ向こうに座っていた男が音を立てて席を立つ。―ああ、心臓が火傷したようだ。 去り際に向けられた硝子を挟むことのない凍るような視線は、冷たい熱を持って幼い頃負った低温火傷の痕を静かに押し広げて行った。 |