人はこれを解放と呼ぶのだろう。 私の日常を幾度となく妨害する存在達との関係は長くとも数年で断てるとわかっていたので流れに身を任せることに決めたのだ。 目の前の光景を双眸に映しながらも見聞きすることを放棄している故に暇を持て余したゆたう思考は幼少期まで流れ着く。 人見知りをせず愛想の良い子供と、人見知り故に愛想のない子供 どちらが他者に好まれるかなど考えるまでもないだろう。 無意識というのは実に残酷なもので、周囲は同じように接しているつもりでも実際のところ微笑まれるのも頭を撫でられるのも前者の方が多かった。 幼少期に過ごす環境が人格形成に於いて重点を置くことは間違いではないが、後者の子供は全ての責任を周囲に転嫁するなどと言う愚かな思考に陥ることはなく成長を重ね今に至る。 「そろそろ要点を纏めてもらっても?」 つらつらと流れて行く言葉を拾い集めるのも況してや繋ぎ合わせるのも億劫で仕方なしに口を開く。 私の前に立つ数人の女子生徒達は互いに目を合わせた後に口々に放つ、「今までごめんね」。―ああ、やはり時間の無駄だった。 「何に対して謝られているのかいまいちわからないのだけど」 「…怒ってないの?」 「別に」 「ありがとう…!じゃあ仲直りってことでメアド教えてくれない?」 続々と頬を緩ませた彼女達を前に溜息を飲み込んだ私を褒めて欲しい。 「赤外線で」と各々が携帯を準備する光景にいよいよ額を押さえたけれど幸いにも私の行動に彼女達が怒りを抱いた様子はないので問題はないようだ。 「残念だけど私のアドレスを手に入れたところで今後若菜結人の情報は得られないよ」 だって私は家を出て寮生活になるのだから。 そもそも三年間―長い人は九年―同じ学び舎で過ごしていたのに何故私から彼の情報を得ようとするのか甚だ疑問である。 どんな色眼鏡を掛けたとて私と彼の関係が芳しくないことは明らかなのだから、本人に聞く勇気がないにしても私に聞くより彼と同じ高校に進学する人に頼んだ方がマシだろうに。 罪の意識から解放されたいが故の一方的な謝罪を終え、更なる目的を果たすには私では無意味だと知ったのだからもう良いだろう。 彼女達の気が済むようにとこんな茶番に付き合っていたがそろそろ限界だ。何やら声をぶつけられたけれど拾うことなく背を向ける。…ああ、でも、最後に一つ。 「怒っていないのはあなた達に興味がなかったからであなた達の行動自体は迷惑だったから今後誰に対しても同じことはしないのを勧めるよ」 陰口や無視を始めとした精神的攻撃はどうでも良かったけれど教科書への落書きを始めとした物理的攻撃には正直手を焼いていたのだ。 告げる為に振り返った先で並んだぽかんとした顔には特に何を思うこともなく今度こそ踵を返し幾分すっきりした気分で卒業式の余韻に浸る人の波から外れて行く。 私の動きに合わせて弾む母譲りの柔らかで癖のある髪と質は同じだが私より明るい茶色とすれ違った一瞬ぶつかった視線はどちらともなく極々自然に逸らされた。 「お前の妹最後の最後までキッツイな」 ありゃ悲惨だと顔を顰めても所詮他人事、楽し気な雰囲気を隠し切ることも出来ない元クラスメートに頷いては見せるが実際どっちもどっちだろ。 イジメと呼ぶには微妙だった―だって被害者がいない―があの女子達があいつに嫌がらせをしていたのは事実だし、謝ったのだって卒業ついでに自分達がすっきりしたいからとどうにかして俺と関係を繋いでいたかったからなのは明らかだ。 頭の中で別のことを考えていても空気を読んで勝手に動く口は昔から重宝してる。 同級生や下級生からの「一緒に写真撮って」の嵐に応じてその都度笑顔を作りながらも薄情な俺はこいつらと過ごした思い出に浸るどころか一足飛びでガキの頃を思い出してた。 頭が良く周囲の手を煩わせない子供と、頭がそこそこだからこそ周囲に迷惑ばかり掛ける子供 双子なのにというか双子だからこそ無意識に比べられたんだろう。 バカな子程可愛いとはよく言ったもので、後者の子供の方が周囲に構われていたが慕われはしても信頼はされていなかった。 分け隔てなく接してくれているつもりだったんだろうがそれは不可能に近く、向けられる眼差しに含まれる期待度の違いは幼さ故の敏感さで気づいていたが卑屈になるどころか明るく成長し今に至る。 だって俺にはサッカーあるし。 勉強が出来る頭がなくともボールを蹴る足があれば良い。 周りが俺とあいつを比べてどう思おうが興味もないし、それ以前にあいつに対する感情が薄いんだ。 人混みに埋もれて最早どこにいるかもわからない俺と同じふわふわの髪を探そうとも思わない。 つーかいい加減俺も帰りてえんだけど。場の空気に呑まれて忘れてんのか知んねえけどどーせ離任式でまた会うじゃん?離任式と入学説明会が時間までがっつり被ってんのって武蔵森だけなんだろ? だったらそんな最後のチャンスみたいに忙しく写真撮ったりメアド交換しなくても良いだろうにご苦労なこった。 「あ、そーだ卒アルにサイン書いてよ!サッカー選手になった時の練習ってことで」 「数年後にはプレミア付くぜ?」 「期待してるー」 ま、こんなサイン書いたことなんて即効忘れるだろうけど。 それともこいつらの顔忘れる方が早っかな? * * 武蔵森に進学するにあたって最も気掛かりな点が寮の部屋割だった私にとって人数の関係で二人部屋を一人で使用出来るのは幸いだった。 何故なら私は自分の領域を侵されることに多大な嫌悪感を抱いてしまう集団生活不適合者なのである。 同室者に気を遣ったり遣われたりする必要がなくなったのでこれで気兼ねなく休日も自室に籠ることが出来るのだ。実に有り難い。 袖を通すのは二度目になる制服に身を包み髪を整える為に鏡を覗く。 今日も見事に好き放題な荒れ具合だ。鏡の横に並べたオレンジ色のキューブの蓋を回し指先に少量のワックスを付けて髪に馴染ませていく。 そう言えばこれを自分で使ったのは初めてかもしれない。 何度か世話になったことはあるもののそれは私が使ったのではなく私に使われただけのこと。 私達双子間にはいつの間にやら出来ていた暗黙のルールが複数存在する。 その内の一つが朝の洗面台で鉢合わせした際には兄が私の髪を整えるというものだ。 流行に敏感な今時のオシャレ男子にとって無造作にも程がある私の髪は見るに堪えなかったらしいとは言え、無言で私の背後に立ち勝手に髪を弄り出した時には鏡越しにガン見してしまったが不便はないので好きにさせていた。 使いかけのこのキューブは入れた覚えもないのに何故か私の引越しの荷物に紛れ込んでいたのだ。 互いの物を勝手に使わないのもルールの一つなので名探偵はお呼びでない。犯人はきっと新たなお気に入りが出来てこれは必要なくなったのだろう。 家を出る妹への餞別なのかゴミ処理なのか知らないが物に罪はないので好きに使わせてもらう。 見よう見真似ではあったが人前に出られる程度に落ち着いてくれた髪に一つ息を落とす。 そろそろ食堂でご飯を食べなければ。至って平常通りの心臓は数時間後に控えた入学式に対する関心は薄いらしい。 ちなみに両親とも仕事の為私も兄も保護者に見守られることはなく高校入学という新たな一歩を踏み出すのである。まさに自立への一歩。 母から今朝届いたメールに添付されていた新入生の手本のような姿は今頃存分に着崩されていることだろう。 |