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一つずつひも解くように滑り落ちる言葉の全てを俺の耳は確かに拾い上げるけれど、数センチ離れた距離から紡がれる音が酷く遠くに聞こえる。

小三のときに親が離婚して別々に引き取られ母親とはこのマンションに引っ越した。
どちらの家も都内でそう離れてるわけじゃねえから会いたくなればいつでも会えたし それを咎めるような親じゃねえから手紙や電話のやり取りも頻繁にした。
転校しても人好きのする性格からすぐに友達ができただが、やっぱり寂しかったらしい。
転校前の友達に会いたい。父親に会いたい。
そうした想いを聞いていたが、一冊の本を手に告げられたの言葉を拒否するわけもなくて。


「ずっと一緒だったからお互いの癖とか口調を真似るのは簡単だった。でも、」


の方は元いた場所ってこともあって覚えることも少なかったがは違う。
知らない場所、知らない人。を取り巻く全てのことを頭に叩き込んで、 唯一ほんとの自分を知っている母親にも言うわけにはいかねえから結局頼れるのは自分だけ。
ランドセル背負ったガキにゃあさぞ辛かっただろう。


「ま、不安なんて一度成功すれば薄れるもんだし?それからだよ。あたしたちは時々入れ代わるようになった」
「…あの日も、そうだったのか?」
「……。いつもみたいに近状報告しながら一緒に過ごして、そろそろ帰ろうって服とか交換して駅に向かう途中だった」


ゆっくりと流れた視線の先で左足を撫でる。そのときのことを思い出したのかぎゅっと眉が縮こまった。


「入れ代わってることなんてあたしたち以外誰も知らなかったから、」
「…なんでほんとのこと言わなかったんだよ」
「あたしはじゃなくてだって?」
「ああ」
「最初は混乱してたってのもある。意味がわからなくて、なにが起こったのか思い出せなくて」
「……」
「お父さんとお母さん、目が覚めたあたしになんて言ったと思う?」


鼻から抜ける笑いとともに歪む口許。
人を小馬鹿にするんじゃなくて、自分自身を馬鹿にするような、


が無事で良かった」

「だってさ。びっくりだよね」
「それは、」
「わかってるよ。逆ならが無事で良かったって言ってくれた。でも、それでもっ、かなしかった…」

「目が覚めたらあたしが死んでたの。あんたにこの気持ちがわかる?」


いつかも聞いた言葉。だけどまた別の重さの言葉。
感情を映さないの目が真っ直ぐに俺を見た。


「二人とも泣きながら言うの。はもういないんだって。だけでも生きててくれて良かったって」

お父さんもお母さんもいつも笑顔で可愛いあの子が大好きだった。あの子も、二人のことが大好きだったの。
そんな二人にほんとのことなんて言えなかった。
あたしがもういないって泣いてる二人にいなくなったのはなんだって、そんな酷いこと…、

「一度に二回もなんて耐えられないよ」


静かに床に落ちた瞳は揺れてはいるが水を含んではいない。
だけど手のひらに折り畳んだ指先は微かに震えていた。


「…だから黙ってたのか」
「そう。あの日は死んだの。だからあたしはわたしとして、として生きようって決めた」

「―決めたのに、」


ぽたり、絨毯が染まる。


「一周忌で集まったみんながのことを過去形で話すの聞いたらなんか、……なんか、痛くて、」


震えを隠すような掠れた声を一つも聞き逃さないように息を潜めて深く俯いたを見る。
睫毛を濡らす滴を払う素振りも見せずに震える唇は淡々と言葉を紡ぐ。


「今更ほんとのことなんて言えないしこの秘密は墓場まで持ってこうって決めたのに急に怖くなった」

「ああ、ひとりぼっちなんだって。ほんとのあたしを知ってる人は誰もいないんだって」

「そしたら誰かに気づいてほしくて、誰でもいいから知ってほしくて、」
「……それが、俺…?」
「…気づかないならそれで良いって思ったよ。だけど、気づいてくれた」


ゆるりと持ち上がった頬を耐えきれず透明の道が走る。
綺麗だ、なんて場違いにも一瞬気を取られた俺は馬鹿か。


「ちょっとの間でもでいられるのが嬉しかった。あんたの前ならあたしでいられた」
「、じゃあなんで素直に従ったんだよ。…消えてくれって言ったときに、なんで、」


最低なやつだと泣き崩れても良かったじゃねえか。
知らなかったとはいえ残酷なことを願ったのは俺。そんな過去の俺を今殴り飛ばしてえくらいなのに。

きつく眉を寄せて唇に歯を立てる俺とは逆に、は指先の力を抜いて目じりを縮こまらせた。


「あんた言ったよね、一人で泣いてるを見て放っておけなくなったって」
「…ああ、」
「それじゃないよ。あのとき蹲って泣いてたのはあたし。初めてになった、あたし」


悪戯が成功したときのうちのちびどもとそっくりな顔に思わず息をするのを忘れた。


「だからね、やっぱり止めようって思った。これ以上あんたを困らせるのは嫌だなって」

としてでもあんたの記憶にあたしが生きてる。それだけでもう十分だって思ったんだ」

「…ま、結局ぜーんぶばれちゃったけど」
「……そうだな」


乱暴に目許を擦って不機嫌そうに口を尖らせる。
それから二三度頬をかいたは深く深く息を吐いて睨むように俺を見る。


「あたしはこの先もとして生きるよ。だから悪いけどあんたにもこの話は墓場まで持ってってもらう」
「…本気か?」
「なに、重い?」


人を小馬鹿にするように口の端が持ち上がる。

小三のときに道路を挟んだ向かいのマンションに越してきたは俺にとって今じゃ大事な幼なじみだ。
歯を食いしばって一人で泣いてるあいつを見てからどうにも放っておけなくなった。
長年俺の横で笑ってたのは一年前にいなくなっただけど、キッカケを作ったのは今目の前にいる


「そうだって言ったら?」
「ぶん殴る」
はんなことしねえぞ」
「知ってるよ。きっと周りはが急に乱暴になったって大騒ぎだろーねえ?」


赤い目の中の俺が微かに歪む。
黙り込んだ俺にが見せた一瞬の表情は俺の口から深い息となって消えた。


「ひとりぼっちは寂しいってか?」
「ハズレ」
「あ?」
「あんたがなんて答えようがもう一人じゃないもん。この秘密を知ってるのはあんたとあたし、」


「世界中探したって、共犯者は二人だけなんだよ」


明るい部屋に歪な三日月。弛んだ赤い瞳から音もなく透明な温度が落ちた。