気が付いたのは五歳の時。歳の離れた姉とちょっとしたことで喧嘩になり、カッとなって勢いのまま口にした 「姉ちゃんなんてどっか行っちゃえ!」 ぴたりと動きを止め表情を引いた姉は何も言わずに家を出たが、 喧嘩の途中で姉が黙り込んで何処かに行くのはよくあることだったので幼い俺は姉の行動を気にすることはなく、 暫くすれば喧嘩の原因さえ頭からすっぽりと抜け落ちていた。
IROKAKUSHI
色隠し 「あーんな小さかったかじゅももう高二とはねぇ。そりゃ私も歳取るわけか」 「…何だよ急に。てか仕事は?」 「今日は午後からなの」 「ふうん。…おい家ん中だからってだらけ過ぎだろ。みっともねえな」 「お母さーん!かじゅが酷いこと言うー!」 椅子の上で体育座りをしながらもそもそとパンに齧り付いていた姉が ベランダで洗濯物を干している母に向かって声を張り上げた。「えー?なあに?」 聞き返す声に慌てて姉の口を塞ぐ。 「ばっ!いちいち母さんに言うなよ!」 「何でもねえ!」。ベランダに向かって声を投げれば、短い返事。「そー?」 流されたことにほっと力を緩めるとこれ幸いと俺の手から逃れた唇が動く。 「汗水流して労働してる姉を労わらないかじゅが悪い」 「別に、そういうわけじゃ…」 「メリーのケーキ」 「は?」 「帰りに駅前のメリーでケーキ買ってきてくれたら許してあげる」 「あそこ高ぇじゃん!」 「お母さーんっ!」 「わかった!わかったから!!」 「流石私の弟ね。おっとこまえー!」 「こんな時ばっか褒めやがって」 俺が姉にとことん弱いのはガキの頃からの刷り込みもあるが一番は姉に対して負い目があるからだろう。 家はあまり裕福ではない。 俺が生まれて間もなく父と別れ、以来女手一つで俺達姉弟を育てた母は昔から寝る間も惜しんで働いていたが、 忙しい仕事の合間に家事をしっかりこなしていたし例え五分だろうが必ず学校行事には来てくれていた。 そんな母の助けになるべく姉は高校卒業してすぐ大手銀行に就職。 頭の良い姉が大学に進まないことを教師は勿論母も反対したのだが、 将来の夢も特にないので構わないのだと決して意志を曲げることはなく―。 当時小学生だった俺は知らされていなかったが、どうやら姉は俺がサッカーを続けて行く為に進学を諦めたらしい。 親戚が噂しているのを偶然聞いて姉に問い詰めたところ自意識過剰だと頬を引っ張られたが。 「あら一馬、お姉ちゃんがいるからってのんびりしてると遅刻しちゃうわよ?」 空になった洗濯籠を手に戻って来た母の、それこそのんびりとした言葉にぐるんと時計に目をやる。やばい、時間…! 口許を引き攣らせれば新しい食パンにたっぷりとイチゴジャムを塗っていた姉が仕方がないと息を零した。 「もー。お皿下げといてあげるからさっさと歯磨いておいで」 「サンキュ」 「あ、そうそう。今日お母さん夜勤だから、夜は冷蔵庫の中の物温めて食べてね」 「ありがとう。お母さんの分のケーキ冷蔵庫に入れとくね」 「ケーキ?」 「そー、メリーの。お母さん好きでしょ?かじゅが買ってきてくれるって」 「本当?一馬が優しい子に育ってくれて嬉しいわ」 洗面所まで届いてくる嬉しそうな声に、これは絶対買い忘れたり出来ないと頭に刻む。 身支度を整えてリビングに戻ればご機嫌な姉が俺の鞄を持って玄関まで付いて来たので、 固く結んだままの靴紐が解けないように気を付けながら履き慣れたスニーカーに足を突っ込む。 「イチゴのショートケーキだからね」 「わかってるよ」 「なら良し。はい行ってらっしゃい。後輩に舐められんなよ」 「ん」 立ち上がった俺に鞄を渡し、ぽんと背中を両手で押した姉に短く答え キッチンで俺達の夕飯を作っている母にも聞こえるよう「行ってきます」と声を張ると、 俺よりもデカイ声で「行ってらっしゃい!」と送り出された。 子供を大切にする包容力の塊みたいな母、喧嘩は多いがいつだって俺の味方でいてくれる優しい姉。 父親と過ごした記憶がなくても寂しいと感じたことがないのは母と姉がその分愛情を注いでくれたからだ。 母子家庭だからと言って“可哀想”ではなく、俺は本当に恵まれた家庭に生まれたと思う。 「待ってヒロくん!行っちゃだめ!!」 切羽詰まった女性の声に何事かと視線を向ければ小さな子供が母親の手をすり抜け道路に飛び出そうとしていて、 慌てて追い掛ける母親と走って来るバイクに思わず口を開く 「止まれ!」 あと一歩のところでぴたりと動きを止めた子供を追い付いた母親がぎゅっと抱きしめ、 やがて近付いてくる俺に気付いたのか顔を上げてお礼を言った。 「いえ、俺は別に。…横断歩道渡る時はお母さんと手繋いでなきゃ危ないぞ」 くしゃりと子供の丸い頭を撫でれば、感情の抜け落ちていた顔に表情が戻る。 どうやら母親は息子の異変には気付かなかったようだ。ほっと息を吐き、軽い挨拶をして駅へ進む。 ちらりと覗いたメリーはまだ開店準備中でカーテンが閉められたままだったが、どことなく甘いケーキの香りがした。 …てか今日金持ってたっけ? ホームに向かいながら財布を確認すると普段は絶対にいない諭吉と目が合って一瞬思考が止まる。…姉ちゃんだ。 こういうところがあるので何度姉の我儘に振り回されようと結局憎めないのだ。 そして俺は、一生姉に頭が上がらないだろう。 *** 姉が隣の県で警察に保護されたと連絡が入ったのは深夜を回った頃。 意地でも寝ないのだと母の横でじっと黙り込んでいた俺は、すぐに母の車で姉の許へ向かった。 当時小学六年生だった姉の足で車で一時間以上掛かる距離を歩くなど普通ではない。 保護されてからも質問には答えず、体力は限界を超えてるにも関わらず 尚もどこかへ向かおうとする姉は医師により薬で眠らされ病室のベッドで横たわっていた。 そうして母が大人達と話している間に目を覚ました姉は俺に気付いた様子もなくベッドを下りようとし、 何度声を掛けても言葉を返すどころか目を合わせることもない。 異様なものを感じ必死になった俺が 「姉ちゃんどこへも行っちゃだめ!」と抱きついて叫ぶと、姉は魔法が解けたように呆けた顔をし、 泣いている俺に気付けば驚いたように目を丸めた後いつもの調子で頭を撫でてくれた。 その後、母や周りの大人達がどうしてこんな所まで歩いて来たのかと問い掛けても姉はただわからないと首を傾げ、 それどころか自分がこんな所まで歩いて来た記憶が綺麗さっぱり抜け落ちているのだと真面目な顔で言う。 最後の記憶は?との問いに姉は一瞬口籠り、家でテレビを観ていたと答えた。 ―その一瞬、確かに俺と目が合ったのだ。 姉は嘘を吐いた。俺と喧嘩したことを憶えている筈なのに、何度聞かれても俺の話はしなかった。 恐らくあの時、聡い姉は自分が“こう”なった原因が弟の言葉にあると気付いたのだろう。 気付いて、誰にも言わないと決めた。 「ほらかじゅ、大丈夫だよ?」 困ったように笑って俺の涙を拭う指の細さに、ぞっとしたのだ。 きっといつか、俺はこの声で誰かを不幸にする 幼いながらに自分の中に生まれた異質さに気付いて、声を上げて泣いた。 抱きしめてくれる腕はどこまでも温かかった。 |