1
01.11




は良いなあ」


それは聞き慣れた言葉で、聞き厭きた言葉。
人からどんなに羨ましがられても、あたしはずっと、あたしじゃない人になりたかった。



***



「おいあんた、こんなとこで何やってんだ」


こつんと爪先にぶつかった声に閉じていた瞼を押し上げて視線を落とすと、 階段の踊り場で足を止めた黒川くんがあたしを見上げ少しだけ首を横に倒していた。
いつもはあたしが見上げる側だから新鮮だなあ。壁に凭れていた頭を真っ直ぐに直して、肺に冷たい空気を送る。


「こんにちは黒川くん。何してるっていうか、まあ、所謂サボタージュ?」
「珍しいな。何かあったのか?」
「黒川くんは何かあったからサボったのかな?」


質問を質問で返すのはずるい事だ。
だけど彼は嫌な顔一つしないで口の端を持ち上げるから、あたしは彼に甘えてしまう。


「うちのクラス自習なんだけど、みんな喋ってて煩いから保健室行くって言ってサボっちゃった」
「だったらベッドで寝てりゃ良いのに。見回り来てばれたら内申響くんじゃねえの?」
「もう三学期だから今更関係ないよ。大丈夫」
「やるな」


彼が一段上る毎にあたしの目線は高くなり、距離が縮む毎に紡ぐ声は小さくなる。
そうして黒川くんは階段の一番上に座るあたしの数段下で足を止めると、壁に背中を預けるように斜めに腰を下ろした。


「でもあいつにばれたら拙いんじゃね?」
「あいつって?」
「聞くか?」


鋭い目を更に細めて、彼は得意気に片側の口角を上げる。 さてはさっきの仕返しだな。
だけどあたしが降参だと吐息を落とし、ちょっとだけ肩を竦めて見せれば、ほら。意地悪な視線が和らいだ。


「過保護な従兄持つと大変だな」
「言う程じゃないよ。てかあたしより黒川くんたちのが一緒に居ること多いじゃん」
「そりゃま、元キャプテン様は自分が作ったサッカー部が自分が抜けた途端廃部になんねえように目ぇ光らせてっから」
「現キャプテンがそんなヘマするなんてこれっぽっちも思ってないだろうけどね」
「自分が指名したんだから当然だって?」
「違うよ、信じてるの。黒川くんなら大丈夫だって。…やっぱ何かあったの?今更あたしに聞かなくても、 こんなの黒川くんならちゃんとわかってたでしょう?」


彼の事をそんなに知っているわけじゃないけど、それでも彼が卑屈になるのは珍しい。
そもそも責任感のある彼が部の名前を背負う立場を自覚しながら授業をサボるなんて、やっぱり変だ。 以前不良のレッテルを貼られていた彼らもサッカー部が出来てからは 校内での不良行為が発覚次第部長によってキツイ制裁を加えられていたので、今ではしっかり授業に出てるのに。


「悪ぃ。別にあいつとは何もねえよ。…ただ、俺が勝手に比べて、勝手に落ちただけだ」
「……比べるって、翼と?」


あたしの質問に黒川くんはくしゃりと顔を歪めて、


「翼に敵わねぇのなんて今更なのにな」


まるで何かから逃げるように、そっと視線を落とした。

―ああ、彼もこんな顔するんだなあ。
きっと翼に対しての感情よりも、劣っている自分に対しての感情のが強いんだろう。
直感でそう思ったのは、たぶん、似てたから。


「そうでもないよ?」


口から零れた軽い音に怪訝そうな視線が注がれる。
下手な慰めなんか欲しくないんだろう。だけど、あたしは別に慰めるつもりなんてないのだ。


「黒川くんの事そんな知らないけど、それでも翼より黒川くんの方が気配り上手だなって思うし、 誰が見ても身長は圧勝だよ?…あ、二個目は内緒でお願いします」


唇に人差し指を押し当てて笑えば、驚いたように目を瞠った彼がくしゃりと目じりを弛める。
そんなに噛み殺さないで堂々と笑えば良いのに。本人が居たら流石に無理だけど。

揃えた膝に両肘を載せ、両手で顎を支えた前屈みの体勢でクツクツと笑う黒川くんを眺めているあたしに、 漸く波が引いたのか黒川くんが落ち着いた声を紡ぐ。


「言ったところでキレられんのは俺だけだと思うぜ?」
「どうして?」
「だってあいつ、いつだってあんたには優しいだろ」
「…、……ああ、うん、そうだね。でも、」


背筋を伸ばして、冷たくなった両手をスカートに落とす。
意味もなく左手で反対のカーディガンを引っ張って、ぎゅっと、袖の下に隠れた親指を握った。


「翼があたしに優しいのは、あたしに興味がないからだよ」


何度も喉の奥に押し込んだ言葉を吐き出してしまったのは、黒川くんの所為だ。
翼には敵わないと苦笑した彼が、あたしと似てたから。

玲ちゃんには敵わないと、情けなく眉を下げたあの頃のあたしに似てたから。






帰りの会が終わって鞄に持ち帰る教科書を詰めていたあたしに掛けられた声は同い年の従兄のもので、 顔を上げれば机の横に立った翼があたしを見下ろしていた。


「どしたの?」
「今日保健室行ったんだって?大丈夫なの?」
「…何で翼が知ってるの?」
「柾輝に聞いた」


恨むぞ二年の黒い人。
今頃一つ上の階からグラウンドに向かって移動しているだろう彼を思い浮かべては引き攣りそうになる口許を何とか堪える。
そうしてきっちり左右を斜めに引っ張って笑顔を作り、何でもないように口を開いた。


「心配してくれてありがと。ちょっとお腹痛かっただけで、今はもう何ともないよ」
「そう。でも心配だから送るよ」
「…いやいや一人で帰れますよ?てか逆方向でしょ」
「ぼくがと帰りたいんだけど」


だめ? こてんと首を傾げた姿に駄目なんて言えるわけがない。 周囲から集まった視線を振り払うように首を振って立ち上がる。


「椎名ちゃん椎名くんばいばい!」
「ばいばい」
「じゃあね」


可愛く笑って手を振ったクラスの女の子たちにひらりと手を振り返せば、翼も目線だけ向けて短く告げる。 ―それだけで、彼女たちは嬉しそうに頬を赤く染めるのだ。
けれどちらりと視線を向けた先の翼は既に彼女たちから目を逸らし前を向いていて、これっぽっちも興味がなさそう。

同い年の従兄は昔からとびきり可愛くて人気者で、だけど、気づいたら少しばかり擦れていた。
ふとした瞬間にとても冷たい目をする翼は、自分に向かって来る者には容赦ない。
顔に似合わず毒舌で、マシンガントークなんて言われ一部で恐れられている彼だけど、 あたしは一度だって翼のマシンガンを受けた事がないのだ。

羨ましい と人は言う。
翼とお揃いの「椎名」も、小さな頃の彼を知っているのも、彼に下の名前で呼ばれるのも、彼に優しくされるのも、 全部が全部「羨ましい」のだと、翼に好意を寄せる人は決まってあたしに告げるのだ。


「良いなあちゃん」


…今だってほら、翼と一緒に帰るあたしに聞き慣れた言葉がぽつり。
だったら代わってよ。
羨ましいと言われる度に何度も吐き出したくて仕方なかった言葉。
口にした途端散々な目に遭うのは予想が付いてるので言わないけど、あたしはみんなが羨ましい。


?どうかした?」
「…ううん、何でもない」


心配そうに顔を覗き込んだ翼に笑って首を横に振る。

昔から翼はあたしに優しい。酷い事は言わないし、叩かれた事だってない。
だけどあたしは、あたしじゃない人になりたくて堪らないの。
翼があたしに優しいのは、あたしだけは翼を好きにならないと思っているからだ。
優しくしても煩わしくならない女の子。それが従妹の椎名。 だから目いっぱい甘やかしてくれる。優しくしてくれる。…だけどね、

あたしが翼の事を好きだと言ったら、きっと翼は裏切られたって顔をして、二度とあたしに笑い掛けてはくれないだろう。


「みんなは良いなあ」


だって、簡単に翼が好きだって言える。





2
→01.28



--------------------------------------------
2014年度テーマ「君と結ぶ」
1月11日(水)君と僕との堅い友情(誕生花:匂檜葉)

Special Thanks*みなさん
+++
「stray cat」のみなさん主催企画サイト「0419」の2014年度に提出させていただいたお話です。