「さん?」 名前を呼ばれて閉じていた目を開ける。 覚えのない声では脳裏に顔は浮かばず、ゆっくりと首を回すと、また、静かな声が落ちた。 「やっぱりさんだ」 声と同じく涼しげな目許は決して大きくはないのに妙に印象的で、とても眼力がある。 そこにいるだけで雰囲気のある子を、私は一人だけ知っていた。 「……英士くん?」 恐る恐る呼び掛けると彼は口許をほんのわずかに和らげて「久しぶりだね」と頷いた。 彼と最後に会ったのはもう四年も前のことか。 あの頃とは少し形の違う学ランに時の流れを噛み締める。 「大きくなったね」 「四年前より?それとも、十年前?」 相変わらず聡い子だ。 私の中の英士くんはランドセルを背負った小学生で、 もう思い出すことはできないけれど、今よりずっと高い声で「さん」と私を呼んでくれていた印象が一番強い。 「ねぇさん。俺はもうすぐあの人と同じ十八になるよ」 「…誕生日、一月だったもんね」 「うん。来年には彼女より大人になる」 ゆっくりと流れた彼の視線が私の前でぴたりと止まる。 彼女はいつだって温かかったのに、この石はとても冷たいのだろう。 「寂しい?」 ぽろりと零れた言葉に温度はあったろうか。 はっとして彼を見ると、英士くんは気にした素振りも見せず、ただ、静かに微笑んだ。 ちくり、心臓に針が刺さる。 十年前から私たちは同じ痛みを共有している。 「卒業したら広島に行くんだ」 「、え?」 「サッカー。向こうのチームに決まったから」 「…そっか、おめでとう。随分遠くに行っちゃうんだね」 あの頃も彼女から英士くんがサッカークラブに所属していることなど色々と聞いていたけれど、 私の目には室内で静かに読書に耽る文学少年として映っていたので未だに英士くんとサッカーを結び付けるのは難しい。 四年前に一度だけ制服姿を見ているとはいえ、やはり私の中の英士くんは小学生のままなのだ。 「先に遠くに行ったのはあなただよ」 水面に落ちた一滴の雫がゆっくりと波紋を広げる。 痛いほど冷えた指先を風が掠めて、私は思わず肩を揺らした。 「責めてるわけじゃない。俺たちを結んでいたあの人がいなくなったんだから他人に戻るのは仕方がなかったし、 高三の忙しい時期に毎月俺に会いに来てくれてたのが特別だったのもわかってる。 …あの人は俺にとって姉のような存在だったから、同じようにあの人を大切に想っていたあなたが側にいてくれて、 俺は何度も救われた。ありがとう」 「、……私が、寂しかっただけだよ」 救われたのは私の方だ。 あの頃、自分より弱い立場の彼を想うことで私は崩れ落ちずにいられたのだから。 「そう。でも俺は嬉しかった。だからさんが遠くに行って、すごく、…寂しかった」 「…うん」 「九年前、必ず来ると思っていたあなたが来なくて、あの時は裏切られた気分になったよ。その次もそう」 「……、ごめんね」 「どうしても外せない用事があったんでしょ?親族じゃないんだし仕方ない。 だけどあの頃の俺はまだガキだったから、あの人を想う時はさんと一緒にいたかったんだ」 静かな彼の言葉はまるで真綿に針を包んでいるよう。 悪意と名付けるには至らないけれど、きっと彼は気づいてるのだ。あの時私が、私の意思で彼と距離を置いたことを。 私だって彼女を想う時は英士くんと一緒にいたかった。 十年前のあの日から私たちはずっと一緒に痛かったから、お互いの痛みの逃し方を知っていた。 知っていたからこそ、このままではいけないと思ったのだ。 きちんと痛みと向き合って涙を流さないと、いつまでもあの日から動けない。 だから、高校を卒業して家を出るのを理由に彼に会いに行くのを止めたのだ。 ――それなのに、 「八年前も九年前も、さんは別の日に一人で彼女に会いに来てたんだね。 四年前に偶然ここで会わなければ俺は今も気づかなかったし、まさか、こんなに早くまた会えるとは思わなかった」 「……私も、少なくともあと二年はきみに会うことはないと思ってたよ」 次に彼と顔を合わせるとするならば二年後の彼女の十三回忌だと思っていた。 一周忌も三回忌も、英士くんと会うのを避ける為に無い予定を作って別の日に一人で手を合わせに来たのに、 四年前のあの日、今日と同じように声を掛けられて動揺する私を見て、彼は全て気づいてしまったのだろう。 「もしかしてこっちに戻った時には必ずここに来てるの?」 「うん」 「俺には、……。―ねぇ、さん。俺の気持ちは四年前から変わっていないよ」 「…あと二年待ってくれるんじゃなかったの?」 「次に会った時って言っただけで、はっきり六年後って言ったわけじゃないでしょ。それに、覚えてる?俺の誕生日 明日なんだ。明日、十八になる。 さんにとって俺は十年前のあの頃のままで、何年経ってもあなたの目には子供に映るかもしれない。でも、」 「待って!…待って、英士くん。それ以上は聞けない」 「どうして?未成年でも十八になれば籍は入れられる」 「そういう問題じゃないよ。私と英士くんじゃ違い過ぎる。 これからが英士くんにとって人生で一番大事な時期なのに、そんな時にこんなこと決めちゃ駄目だよ。早過ぎる」 四年前、再会を果たした英士くんからずっと胸に秘めていたという想いを告げられて私は酷く混乱した。 歳の差を理由に断るのだけは止めてくれと先手を打たれ、彼の了承を得て答えを先延ばしにしたのは、 学生の彼にとっては一年だって長い筈だからきっと次に会う時には想いは風化しているだろうと、そう、思って。 「確かに俺には早過ぎると思う。周りの目は俺よりさんに向かうだろうから沢山嫌な思いをさせるってわかってる。だけど、」 知らぬ間に追い越されていた身長は四年前より更に距離ができたようだ。 切れ長の目にしっかりと私を映し込むのは昔から変わっていないのにね。 「大切な人はいつだって突然遠くにいってしまうから、またあなたを見失う前に確かな繋がりが欲しいんだ」 「…あなたの指に指輪があったらこの想いに強引に蓋をするつもりだったけど、ごめん、 自分勝手だってわかってるのに止められない。―お願いさん。俺を選んで」 くしゃりと顔を歪めた彼は今にも泣き出しそうな顔で微笑むから、私は、
一月に別れの詩を
呑み込まれてしまう、すべて。 -------------------------------------------- 続々、かつて小学生だった英士くんと不思議な関係。 |