「それで?どうするの」


さくり、フォークでレタスを縫い留めた私に静かな声が落ちた。 正確にはそれは私一人に向けられたものではなかったけれど。


「どーすっかなー。英士何かねえの?」


いつも通りのあっけらかんとした声は真横から。ころん。白い皿に赤が転がる。


「嫌いだからって人の皿に除けんなよ」
「親切でやってるんですぅ」
「…トマト好きなの?」


今度こそ私一人に向けられた問いに頷いて、ひょいひょいと隣の皿から引っ越してきたトマトにぶすりとフォークを突き立てる。 カットされた物とは違い丸くて小さなそれはしっかり集中して狙わないと上手くフォークに刺さらない為、私はいつになく真剣なのだ。


「本当は自宅謹慎中にこうして外を出歩くのは不味いんだろうね」
「今家に学校から連絡とか、誰か来たりしたらアウトじゃん」
「へー。そーゆーもん?」
「…お前な、」
「怒んなってかじゅま。別にお前は困んねえだろ?」
「結人、一馬は怒ってるんじゃなくて呆れてるんだよ。わかってるでしょ」
「ハイハイスンマセンでしたー」


兄の前で醜態を晒した翌日―つまり今日だが、土曜なのにクラブが休みと言う兄になぜか午前中から叩き起こされ、 いつの間に予約をしていたのか怪我の具合を診てもらえと病院に引き摺られた後に、これまたいつの間に予約していたのか 兄の行き付けの美容院にて一部分だけ短くなってしまった髪を整えてもらい今に至る。

私の髪なのにあれやこれやと兄が注文を付けていたが人一倍人目を気にする男だけあって仕上がりに文句の付けようもなく、 ―ただ、次に向かった先のファミレスに彼の親友達が居たことには些か言いたいこともある。 面倒だからと口を噤んだけれど。


「でも腹減ってたし、家でこんな話してる時に母さん達が帰って来たら…なあ?」


視界の隅で此方に冷めた視線を寄越した兄の歪んだ口許が見えた。
……嗚呼、嫌だ。


「世間の休日とあの人達の休日は滅多に重ならないでしょう」
「それでも時々急に時間出来たって帰って来んだろ。特に今はお前が家に居るし。父さんも母さんも良く出来た娘が可愛いんだよ」
「…嫌味?」
「何、へこんでんの?」
「…」
「都合が悪くなると直ぐ黙る」


押し黙る私へ突き刺さる声に色などない。


「何か言えよ」
「……」
「おい結人」
「だーいじょぶだってこいつこんなんじゃ泣かねぇから」
「そういう問題じゃないでしょ」
「何だ何だ?二人してこいつの味方か?大親友より可愛げなくても女が良いのかよー。酷いっ!結人クン泣いちゃう!」
「…うぜぇ」
「気が合うね一馬。全く同じ感情を抱いたよ」
「うわっ!まじで酷ぇ…!」

「結人に言われたくない」


ぴたりと重なった二つの音に、一拍遅れて隣から軽やかな音が響く。
ゆっくりと視線を横に流せば知らない顔で笑う若菜結人が居た。


「…性格の悪さが露見しているけど」


良いの?言葉にしなくても察したのか、彼は整った眉を不機嫌に寄せる。


「は?バカかお前。こいつらは俺のこーゆーとこも知ってて一緒に居んだよ」
「……。…薄っぺらい関係しか築かないんだと思ってた」
「…聞いたか友よ。こいつはこーゆー女だ。生物学的には女でも可愛げなんて欠片もない。寧ろ俺の方が可愛い」
「だってよ英士」
「自分で言う辺りバ可愛いと取れなくもないけど、却下」
「じゃ、俺も却下で」
「ひでぇっ!」


口では不満を漏らしながらもその表情は柔らかく、それは向かいの席の二人も同じ。
最初から解りきっていたことではあるが改めて私一人場違いなのだと静かに目を伏せる。…居心地が悪い。 カチャン。そっと置いた筈のフォークは思いの外大きな音を立てた。


「帰る」
「―、は?お前何言ってんの?」


冷えた声と眼差しに、すぅ、私の中の何かが冷えた。


「双子だからと言ってこれは私の問題であなたには関係ないしその二人に関しては巻き込む必要性を感じない。 水野くんに教えられた手前世間体もあって関わらずにはいられなかったんだろうけど、そもそも彼と私は知人にも満たないから この件で彼に迷惑を掛けたりはしない。だから、あなたの立ち位置が危ぶまれることもない」


言葉を区切ったのと空気が逆立ったのはどちらが先か。
爆発的に高まった熱量が向かってくる錯覚にも似た直感に衝撃に耐えるべく歯を食いしばった―が、「結人」。 水面に落ちる一滴のような、酷く静かな声により気配が消える。


「勘違いしないで。君を助けたんじゃないから」


口許に静かな笑みを携えて、彼は切れ長の双眸を細めた。


「なあ、自分が何言ったかわかってるか?今のは結人にも、水野にだって失礼だ」


酷く痛そうな顔をしたツリ目の彼は、そう言って気遣わしげな眼差しを私の隣へと流す。


「…、……」


私は、また口を噤んで、逃げるように視線を落とした。


「―英士、一馬、ごめん。サンキュ」


横たわった沈黙を破った声の、いつもと違わぬ明るさに小さく肩が跳ねる。
叱られるのを待つ子供と言うのはこんな心境なんだろうか。あまり経験がないのでわからない。


「おい、こっち見ろ。そんで目ぇ瞑れ」


今度こそ殴られるのだろう。わかっていても逆らえる空気ではなく、言われるままに顔を上げ、兄の表情を確かめる前に瞼を落とす。 ―けれど、


「、ッ!?」


覚悟していた痛みは予想とは別物で、ばちんっ!額を弾いた容赦ない一撃に反射的に目を開けてしまう。 …痛い。物凄く痛い。頬を張られると思っていた為完全なる不意打ちだ。若干額がへこんだ気さえする。
心做しか視界がぼやけたように見えるがあまりの痛みに正確な判断が出来ない。


「…バカだとは思ってたけどまさか此処までバカだったとか」
「否定はしないけど結人にバカ呼ばわりされるなんて可哀想だね」
「どっかのバカ兄がほったらかしにした所為でもあるだろ」
「うわ、ムカツクー!」
「でも否定出来ないでしょ」
「…その通りでゴザイマス」
「兄がめんどくさけりゃ妹もめんどくせーのな。流石双子、超そっくり」
「かじゅまこんにゃろっ!」
「はいはいじゃれない」


―意味が解らない。
張り詰めた空気は一変して、目の前で繰り広げられる光景に理解が追い付かない。


「……なんで、」


ぽつり、零れた声に涼しげな目許を音もなく細めた彼が、静かに唇を開く。


「俺達が君に腹を立てて、これ以上関わらなくなると思った?」
「…」
「沈黙は肯定と取るよ。…俺も一馬も、対人関係に於いてはあまり褒められたものじゃない。だけど、君ほど拗らせてもいない。 俺達が今ある程度まともに人と関われるようになったのは結人の、君の双子の兄のお蔭でもあるんだ。―言ってる意味、わかる?」
「……」
「お前の兄ちゃんはロクデナシに見えるかもしんねえけど、ヒトデナシではねぇよ」
「、……」
「褒めるのか貶すのかどっちかにしてくださいっ!」
「見て一馬、照れてる」
「うける」
「くそっ二人してニヤニヤすんなムカツク!」
「ちょっと、恥ずかしいからって暴れないでよみっともない」
「周りの客にも店にも迷惑だろ」


…わからない。知らない。
居心地の悪さに吐きそうだ。……吐きそう、だったのに、


「……、ぃ」
「あ?」
「…ごめんなさい」


自分でも嫌になる程情けなく震えた声に、ぐしゃり、乱暴に髪を掻き回す手は酷く優しかった。




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