あたしは匂いが苦手だ。

たとえば花屋の前を通ったとき、むせ返るような匂いに酔う。
たとえば香水売り場やそれを沢山振りかけている人とすれ違ったとき、どんなに綺麗な人でも思わず顔を顰めてしまう。
たとえば煙草の煙が流れて来たとき、気が付けば鼻を押さえている。

そんなあたしが最近、煙草を吸うようになった。
副流煙や受動喫煙が騒がれる世の中、あたしの肺はとっくに真黒だ。
それなら自分で黒くしてやろうと思った。
そんな小さな自虐行為。
内側からじわじわと弱らせていく。

お腹が空いた、イライラする、
じゃあ煙草でも吸っておく?
所詮その程度。まだまだ依存はしていない。
寂しさを紛らわせる為に必要なのはなんだろう。
沈む意識の中で考える。
鳴らない携帯を寂しく思うのと同時に、ひどく安堵する自分がいるのを知っているから。

外出をするときに、ほんの少しだけ香水を振りかけてみようか。
自分で買ったものじゃないから好みの匂いではないけれど、
花屋に行って花を眺めるのもいいかもしれない。
一歩踏み込むまでに時間が掛かるんだろうけど、
だけど多分、納豆だけは克服できないと思う。
昔一度だけ仕方なく口にしたけれど、匂いだけでなく味までもが苦手だと気づいたから。

苦手意識を持ってしまうと、克服するのは難しい。
牛乳、納豆、ビール、カメラ、笑顔、
幼い頃のちょっとしたトラウマだ。

あたしは今日も何となく煙草に火を点けて、
この匂いが染みついたら嫌だなあと眉を顰める。
正しい吸い方も味もわからない。
ただ、一番軽くてなるべく匂いがしないものを選ぶ。
喫煙愛好家になろうとは思ってないから、これくらいの気持ちが丁度良い。

あたしは昔から、一度好きになるとずっと好きが基本だから。(唯一の例外は人間だけだ)
だからやっぱり煙草は苦手だと言い続ける。
あたしは匂いが苦手だ。克服したいとは思わない。
心に大きな矛盾を抱えながら、小さな自虐行為を続けていくの。
こんな自分が好き?嫌い?――そんなの、そのときの気分だよ。

「換気ぐらいしろよ」

振り返る。逆光で見えない顔は、でもきっと知ってる顔だと思う。
この男はどうしてまた勝手に入ってくるんだろう。
鍵なんて渡した覚えはないんだけど……あぁそうか、掛け忘れてたんだ。

「お前煙草なんて吸ってたっけ?」

吸ってたもなにも、現在進行形で吸っているんだからそれが答えだ。
返事をしないあたしの前を通り過ぎて、断りもなく窓を開ける。
家主はあたしなんだけど。灰皿代わりの缶に短くなった煙草を押し付けながら片手で髪を耳に掛ける。

「ピアスは開いてないんだよな」

基本的に隠れているあたしの耳には不必要な穴はない。
大抵の人はそれを意外だと言う。開けたいと思ったことは何度もあるんだけどね。
ピアスを開けるにはちょっとしたトラウマがあるから開けられずにいるだけだ。
痛いのは好きじゃないけど注射は平気で自主的に献血に行ったりもする。
たとえば今、ピアッサーを片手に誰かが開けてあげると言えば、あたしはあっさり頷くんだと思う。
そしてきっと、一度開けてしまったらそれを何度繰り返しても平気。
小さな自傷行為を始めるかもしれない。

「こんなの吸ったに入んなくね?」

ピンクの箱を手に取って笑う男の手から箱を取り返して、更に中から一本取り出す。
におわず香る――なんて書いてあるのに、やっぱり臭い。
あたしが煙草を吸ってることに驚くのは、あたしが匂いが苦手だと知ってる人くらいだろう。
だけどきっと、その驚きはすぐに納得へと変わる。
だって、煙草を吸ったことがないということに驚かれたくらいだから。
カラーやパーマで傷んだ髪は、毛先に行くほど光に反射する。

「お前彼氏は?」

いないとわかっていて訊くのか、この男は。
過去にも現在にも誰とも付き合ったことがないと言うと、またも意外だと驚かれる。
嘘でしょ?なんて言われても、こんな意味もない嘘をつくわけがない。
死ぬまでに一度は体験したいことは山ほどあるけれど、でも別に自分からどうこうしようとは思わないし思えない。
白い煙が揺れる。火を点けたばかりのまだ長い煙草が口から離れて行った。
人のベッドに腰掛けて人の煙草を奪った男に、今更過ぎて文句さえ出てこない。
あたしは小さく息を落してまた一本。
そういえば少し前まで脳が空腹を訴えていた気がするけど、今はもう何も感じない。
音を立てた携帯を開く。最後に着うたを変えたのはいつだったっけ?

「出ねぇの?」

メールじゃないことに気づいたのか。閉じた携帯はまだ存在を主張し続けている。

「なぁ、飯食い行かね?どうせお前なんも食ってねぇんだろ」

缶に煙草を押し付けながら得意げに口の端を持ち上げる。
出てるから10秒で着替えろと、まだ答えてもいないあたしの前を通り過ぎた。
仕方がないと煙草を潰してハンガーに吊るしたままの服に手を掛ける。
化粧もせずに財布と携帯だけ持って、玄関に出したままのパンプスを履いてドアを開ければ壁に寄り掛かっていた男と目が合う。
ポケットに捻じ込んだ携帯はもう、ライトを点滅させるだけで静かになっていた。

「足ねぇから駅前のファミレスで良いだろ?」

首に回された腕がさっきまで男の首にあった黒いチェックのマフラーを巻き付ける。
ふわりと香る匂いに、あたしはやっぱり顔を顰めるんだ。
そういえば窓閉めたっけ?鍵を掛けながら首を捻るけど、すぐにまぁいいやと考え直す。
あんなボロアパート、誰も来ないし盗られて困る物もない。
くしゃりと髪を撫でられて顔を上げれば、確認の為ドアノブに触れていた手を取られた。
視線の先にいる男は、やっぱり笑って歩き出す。

風に乗って、どこかの家から焼き魚の匂いがした。
あぁ、この匂いは嫌いじゃない。
再び空腹を訴え始めた脳に従って、久しぶりにきちんと食事を取ることにしよう。


苦手なものは沢山あって、克服しようとも思わない。
大きな矛盾を抱えるあたしは、今日もまた、小さな行為を繰り返す。



ふたしかたしか


あたしの心を決めるのは、あたし以外にいやしない。







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タイトルだけ曲名をお借りしていますが、その曲をイメージしたとかではありません。
名前変換もなにもないですが、お相手はお好きな人をあててみてください。