あ、

と思った時にはもう巻き戻っていた。
特別な事は何もしていない。ただ、瞬きをする間に景色が変わり、今に至るまでの情報が頭の中でパラパラ漫画のように捲られて行く。

(…さて、今回は何をすれば良いのかな?)

言葉も通じない紛争地に放り出されたわけではないのだ。何も焦る事などない。
口の中のスプーンを引き抜いてカップに詰まったアイスを掬いながら、ペラリ、瞬きでページを捲る。


「ちょっと、ぼーっとしてないで早く食べて買い物行って来てよ」


ぼーっとしているどころか仕事モードなんですけど?

―とは、間違っても口にはしない。
目の前でぷかぷかと浮かんでいる端末装置が見えるのは私だけなので仕方ないのだ。 それに柴咲さんのCMはまだ流れる前だから、この母がハーゲンダッツの美味しい食べ方を知らないのも仕方がない。 ちなみに、母の言を受けた私が急いで残りのアイスを胃に収めて家を飛び出さねばならないのも本当に仕方のない事なのだ。

だっては何時の世も母親に頭が上がらない生き物なのだから。



スクロールロック



燦々と降り注ぐお天道様にきゅっと目を細める。
あと一分でタイムカードを切る時間だったから、あっちの空は今頃お月さんが主役を張ってる筈だ。

今でこそ慣れたものだが、初めて巻き戻った時はそれはもう驚いた。
頭の中には二重の記憶がさも当然の顔して居座っているものだから、人とはこんなにも突然精神崩壊するのかと心の中で涙を流し、 現実逃避をするべく小学校の保健室で寝た。―にも関わらず、逃避先はまさかの行き止まりだったのだからサイアクだ。


「お前今日からパシリな」


開口一番にのたまったそいつが更に自分は神だと名乗ったものだから思わずドスの利いた声で死ねと告げてしまったあの日の私は罰当たりだったろうか? ――否。だってそいつ知ってる顔してたんだもん。仕方ない仕方ない。
その後のあれやそれは省略するが、お助けアイテムとして与えられた端末に「神様って最新機器使いこなすんだ」と冷静に声なく突っ込んだのは記憶に新しい。

閑話休題。

歩きながら端末を捲り、今回やるべき事を頭の中に叩き込んでいく。
私以外の目に触れる事のないこの端末は、私の思考とリンクしているらしく何時でも何処でも出し入れ自由。 紛失盗難故障の心配は一切ない優れ物だ。センサーで目の動きを読み取る技術があるのは知ってるが、この先そっち方面の技術が更なる進歩を辿っても流石に何もない空間に物を出したり消したりなんて出来ないと思う。魔法使いじゃあるまいし。 何より壊れないってのが有り得ない。神様スゲェ。


「あっ…と、すみません」


突然の軽い衝撃に踏鞴を踏む。これだから歩きスマホは危ないのだ。
まあこれスマホじゃないけど。てかこの時代にスマホ存在してないけど。


「いえ、此方こそ」


…それにしても、変だな。
今私の目の前にぷかぷか浮かんでいる超ハイテク機器はどういう仕組かわからないけれど端末の向こうが透けて見えるので、 例え意識が端末に向いていても何かにぶつかる事は滅多にない。 彼の有名なスクランブルな交差点ならわからんけども。そういうとこ私は器用なのだ。
だから、この見通しの良い広い歩道で人一人とすれ違うのを失敗するなど有り得ない。

(これ、私じゃなくて相手側の過失じゃね?)

ちらりと視線を移すと、まず目に飛び込んできたのは――、


「………は?」


鏡を見なくてもわかる。ぽかんと間抜け面を晒しているだろう私に透明な何かの向こうのハジメマシテさんが、ぱちり、瞬いた。


「、え?」


肩がぶつかったくらいだからハジメマシテさんとの距離は近く、その上私の頭は思考停止状態だったから突然目の前に生えた何かを認識するのが一瞬遅れた。手だ。手が私の端末をがしっと掴みやがった。まじか。 不測の事態にまともな言葉を発する事が出来ない私に、ハジメマシテさんはニッと笑って走り出す。…うん?

私の見間違いじゃなければあの「透明な何か」はさっきまで私の目の前でぷかぷか浮かんでいた端末と同じ物なわけで、
そして経った今私のそれは奪われたわけで、――つまり、


「っオイコラちょっと待てドロボウ…!」


慌てて地面を蹴って、既に数メートル先を走っている背中を追い掛ける。 ちょっとこれどういう事よあの端末って私しか見えない触れないんじゃなかったっけ!? 自称神とやらに怒鳴り散らしたいところだが今は無理なので兎にも角にも走る走る。

ペチペチと踵を打つ感触に「あ、」と思った時には遅かった。
気合いの足りないぺたんこサンダルが左足から逃げていく―というよりもこれは、走りたくないぺたんこサンダルが左足を放り出したが正しいな。私だって走りたくないから気持ちはわかる。


「ッ、…!」


せめてスニーカーならもうちょっと頑張れた気がしなくもない。
コンクリートに打ち付けられる衝撃を両手のクッションで出来る限り和らげつつ、恨むのは靴下を取りに行くのをめんどくさがった数分前の自分だろうかと溜息を吐く。…あー、痛い。手が痛い。膝も痛い。私の馬鹿め。 むくりと起き上り御座なりに手を払いながら浮かぶ限りの恨み辛みを口の中で呟いて、 一拍の後にいやいやいや!と心の中で盛大に首を振る。全く私とした事が混乱し過ぎてわけのわからない事を考えてしまった。 だって、どう考えても元凶はあいつだ。


「…えーっと、大丈夫か?」
「ざけんなドロボウ」


我ながらドスの利いた呟きは落ちてきた声と重なった。
未だその場に座り込んだままの私に差し出された手を胡乱な目で見てしまうのも仕方ない。

(そもそも誰の所為でこうなったと…?)

眉間に皺を寄せながら、いっそ叩き落として…いや、引っ張って転ばしてやろうか。などと算段を立てるが、 実行に移す前にひょいと顔を覗き込まれて肩を揺らす。吃驚した。
目を丸くする私に、目の前にしゃがみ込んだその人は申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんな、怪我させたいわけじゃなかったんだけど…」
「…はあ。てかそれ返してもらえます?あなた自分のあるじゃないですか」
「あ、やっぱ君もこれ見えるんだ?」
「………」


成程こいつ話通じないタイプか。ひくりと口許が引き攣るのを感じながら唇を結ぶ。
特別気が短いタイプではないものの、会話の成立しない生き物相手に根気よく付き合っていられる程お優しくは出来ていないし、 相手への印象最悪な今なら尚更これ以上付き合ってはいられない。時間の無駄。
それに冷静になって考えれば何も追い掛ける必要などなかったのだ。あの端末は私の思考とリンクしているのだから、 さっさと消してしまえば良かった。あーあ、無駄に疲れた。

一つ息を落として奪われた端末を消してしまおうと思った矢先、するりと腰の辺りに触れた何かが上へと滑り、 両側からぐっと掴まれて本日二度目の思考停止。


「よいしょっと」
「っ、!?」


ぐらりとした感覚に反射的にバランスを取るべく両手で柵を掴む。…えーと、今何があった?てか何に座ってんだ?


「ちょっと此処座っててな」


マイペースに事を進める男を前に、ぱちぱちと瞬きをして思考を働かせる。
取り敢えず今座ってるのは道路と歩道の間にある柵だな。名前わからんけど。これもガードレールって言うの?――じゃなくて、


「足捻ってないと良いんだけど……これ痛い?」


手を取らない私に痺れを切らしたのか何なのか知らないけどね? 人ってのは何の断りもなく両脇に手を入れられてひょいっと持ち上げられたら物凄く驚くと思うんですよ私。 確かに今の私は子供だけど、どう見ても小学生には見えないでしょーが。てか見た目的に同世代じゃん? 触診にしたって勝手に足首触るのも駄目だろ。スカートじゃなくて良かったわ。


「………セクハラ」
「、へ?」


きょとん私を見上げる男はやっぱり私の言葉を理解出来ていないのだろう。別に本気で言ったわけじゃないから良いけど。
そんな事より端末端末。きちんと取り返せたか確認する為に敢えて消さずに私の目の前に移動させる。…よし、大丈夫。 制御出来なくなったわけではない事にほっと息を零し、今度こそさっさと消してしまう。 下から「あっ!」とか驚いたような声が聞こえたけど知った事か。元よりこれは私の物だ。


「そっか、これ触らなくても良いんだもんな…」
「さっきは混乱の所為で失念してました。ところで、あなた自分が何したかわかってます?窃盗ですよ窃盗」
「うぐっ」
「本来なら警察に叩き込むところですが、良いです。どーせ説明出来ないし」
「……ごめん」
「反省してるならさっさと手を放してください。帰りたいんで」
「え?あ、でも怪我、」
「捻った感じはないんで歩けます。早く」
「はいっ!」


強い口調で言えば慌てて私の足から手を放し、おいちょっと待て今度は何?
しゃがんだ男の膝に置かれていた足を引っ込めようと思ったのに、再び足首を掴まれて身動きが取れない。


「……自分で履けますけど」
「うん?」
「……、…ドーモ」


私を座らせた後に回収していたサンダルを態々ご丁寧にも履かせてくれるらしい。

(…この光景は何というか……。)

過った思考をすぐさま打ち消す。 どうか知り合いに見られていませんように。あだ名が女王様とか絶対嫌だ。


「…それじゃあ、さようなら」
「あ!待って。もう少し付き合って欲しいんだけど」
「ヤダし。…えーと、用事あるんでゴメンナサイ」


この人に付き合ってると物凄く疲れる。 これ以上面倒事はご免だとさっさと立ち去ろうとした私だが、腕を掴まれたので渋々足を止める。


「ごめんな、こういうやり方ほんとは好きじゃないんだけど俺もちょっと困っててさ」
「はあ、ッ!ちょっ…!」


どうして今回はこんなにも不測の事態が続くんだろうか?
パーカーのポケットから一瞬で抜き取られた財布に思わず盛大に舌が鳴った。手癖の悪い男だな…!


「人助けだと思って話聞いてくれないか?」


(ごめんなさいお母さん、今日の夕飯はちょっと遅くなるかもしれません。)

困ったように笑った男を、返事の代わりに蹴飛ばした。




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