ねぇ、もしもその心ごと抱きしめられたら、もっと楽に生きられるようになるの?
笑うのも泣くのも怒るのも疲れたならもう何も言わなくていいから、せめて、重ねた手は払わないで。

――だけど、そんなの全部俺の我儘だから。
叫び出しそうな心を砕いて、磨り潰して、粉々にして、一粒も残さず飲み干すんだ。






心音






「ねぇ、笑って?」


これは呪いだ。『まじない』じゃなくて、『のろい』。
本当はこんなことしたくないけど、彼女が望むことは可能な限り叶えてやりたい。

口角をきゅっと持ち上げて握った手に僅かばかり力を込めると、それを合図に睫毛が震え、ゆっくりとその奥を覗かせる。
硝子玉の中にぽつりと俺が映り、両手で捕まえていた温度の一つがするりと抜けて、彼女自身の頬に静かに着地した。

口の端を吊り上げようとする指先は白く、丸く切り揃えた爪が柔い肌に沈んでいく。

傷付けるつもりはないと知っているので、彼女の指が触れているのとは反対の頬に手を伸ばして親指の腹で優しく口端を持ち上げてやる。 首筋に添えた四指から伝ってくる鼓動が愛しい。


「朝飯出来てるからちゃんと食べなよ」


捕まえたままの片手をきゅっと握り直し、名残惜しさを誤魔化すように頬に触れていた手を滑らせて横髪を耳に掛けてやると、 スイッチが入ったらしい彼女が「お腹が空いた」と呟いたので今度こそ手を離す。
彼女がローテーブルに向かうのを確認してから静かに部屋を出て、ガチャン。玄関の扉を閉めて深く息を吐いた。

彼女の家に自由に出入りできる鍵を持っていても、こんな物、きっと意味なんてないのだろう。






*






カチャン。味見に使った小皿をシンクに置いて、近付いて来る足音を振り返らずに鍋を掻き回す。
最近は気温もぐっと上がったけど、日が落ちるとまだ肌寒いのと、俺が食べたかったから今夜はシチューにした。


「…ほんと、きみもよくやるよね」
「お帰り」


帰宅した彼女が何を言うよりも先に呆れたような声を落とすのなんて慣れてるから、今日もいつも通りかと笑いながら振り返る。
疲れた顔が溜息を吐いた後にもう一度『お帰り』と告げれば、諦めたように返事をしてくれるのもいつも通りだ。


「ビーフシチュー?」
「当たり」


俺が本当に食べたかったシチューはクリームシチューなんだけど、彼女はあまり好きじゃないらしいから、仕方ない。
半ば強引に合鍵を奪ってこの家に荷物を持ち込んだのは俺だから、彼女の好みを優先するのは当たり前だ。


「もし残りを冷蔵庫に入れ忘れた場合、勿体ないとか捨てるの悪いとかいいから絶対に食べないように」
「食中毒怖いもんね…うん。絶対冷蔵庫入れます」
「そこは絶対食べませんって言って欲しかったんだけど?」
「去年みたいなうっかりはしないように事前にちゃんと阻止するよって心意気です」
「そ。―もうできるから着替えてきな。パンはどうする?」
「食べる。きみはどっちにする?」
「んー…今日は焼かない」
「じゃあ同じで」


真夏のカレー鍋放置事件から一年近く経つけど、食中毒の怖さについて懇切丁寧に語っただけあって彼女もしっかり覚えてるようだ。
部屋に引っ込んだ背中を見送ってコンロの火を消す。
料理なんて別に好きじゃなかったけど、やり始めると中々面白い。…それに、


(胃袋を掴んでおいて損はないし。)


ひっそりと口角が上がったことに気が付いて、はっと息を詰める。
そうじゃないだろ。切り替えろ。確かにこれは勝負だけど俺は見返りを求めたりしない。独り善がりで構わない。急かしたりしない。違う違う違う。

何度も何度も、体温を移すように愛情を注ぐ度に、この行為に溺れそうになる。
そうして思い知るんだ。俺の心臓は漸く生きようとしているんだって。
だからちゃんと大事にして、また壊れたりしないように、好きなことをさせてやりたい。


「もういいよ」






*






――思えば、に出会ったことが俺の人生最大の幸せだったんだろう。


「ねーお兄さーんっ!死にそうな顔してるけどもしかして飛び降りる感じですかー?」


色々あって沈んでいた俺は、あの日、橋の下から今にも踊り出しそうな顔でこっちを見上げる女の声にうっかり反応してしまったのだ。
あまりにも無神経な台詞に腸が煮え繰り返ったわけだけど。


「あはは。まぁこの高さじゃちょっと怪我するくらいですかねー?」


受け身も取らずに頭から落ちれば死ぬかもしれないけど。とは、敢えて言わずに鼻で笑う。
それから暫く橋の上と下で軽口を投げ合って、今考えれば何がどうしてそうなったのか全くわからないけど、 気付いた時には知らない部屋のベッドの中だった。…互いに酒が回ってて何一つ覚えてないのが怖い。
まぁ別に事故は起きなかったみたいだから良かったけど、何で俺が他人のベッドに入ったのかは理解ができないマジで。

互いに第一印象は最悪だった筈で、―いや。だから、かな?その後妙に意気投合して気付けば下の名前で呼び合うようになってたんだよね。


そんな関係が変わったのは、きっと、俺の所為。


身体も心もボロボロになった彼女を、どうしても独りにしたくなくて、無理矢理抱きしめた。
きっとあの瞬間に、の心は死んでしまったんだろう。
痛いよ、スゲェ。それまでは全部どうでも良かったのに。上辺だけで笑ってた罰が当たったのかな。
――だけど、


「何を言われてもやめないから」






*






上の階が騒がしくなり、やがて響いた弾けるような笑い声に彼女がひゅっと息を詰めた。
真っ青な顔でカタカタと震え、耐えるように固く握りしめている両手にそっと手を伸ばす。
そうしてゆっくり手を引いてその身体を包み込めば、強張っていた彼女の身体からゆるゆると緊張が解けていく。

腕の中の温度が心地好くてほっと息を零す。――「やめて」。不意に胸を押されたので、背中に回していた腕を解いた。


「触らないで」
、もういいから。無理に普通でいようとしなくていいんだよ」
「やめてよ、」
「でも、が言ったんだろ?何でも好きにしていいって。俺が何で生きたくないのかわからないし知らないけど、 どうせ生きるつもりがないなら今更どんな酷いことしても関係ないでしょって」


どれだけ心を砕いても、愛情を注いでも、何一つ返さなかったのに。
そんな酷い俺のことを、それでも彼女は笑いながら構い続けてくれたんだ。

俺の心が生きるのを放棄した時に、何でもないような顔してずっと傍にいてくれたのはお前だろ?


「お前が見てるのは俺じゃなくて、俺の中のお前なんだよ」


俺はただ、にもらったものを全て返して、今度は俺があげたいだけなんだ。


「心は一つしかないけど、一度死んだら終わりじゃないってほんとはちゃんと知ってるだろ?」


口角を吊り上げた彼女が俺の言葉を遮るように細い指先で唇に触れる。
ゆっくりとなぞり、口の端を引き上げるように頬を押されれば、鏡の中の俺が顔を歪めた。


「今日も俺の負けか」


そんなに泣いたら瞼が腫れるよ。
彼女の心に触れようと伸ばした手が払われて、唇から感情が削げ落ちた。








--------------------------------------------
唇音とは別視点の、同じお話。