色とりどりのペンで色んな感情を重ねた心はいつの間にか全部が混ざって黒く塗り潰されていた。
今更何を重ねてもどうにもならないから、ぐしゃぐしゃに丸めて、千切って、粉々にして、あたしの中から消えちゃえばいい。

――でも、そんなことできないから。
せめて、もう何も響かないように何度も何度も黒を重ねるの。






唇音






「ねぇ、笑って?」


呪文を唱えたら目を開けて、鏡の中のあたしが笑う。
輪郭をなぞるように自分の頬に手を当てると、真っ直ぐにこっちを見るあたしが笑みを深めた。

毎朝繰り返すこれは儀式のようなもので、
冷水で顔を洗っただけじゃ眠気が引かない寝穢いあたしのスイッチを切り替える為には欠かせない行為なのだ。


「あーお腹空いた」


焼き立てのパンの香りに誘われるようにテレビの前のローテーブルに向かい、ぱちんと両手を合わせていただきます。
さて、今日の天気は…と、今日も可愛いお天気お姉さんの言葉に耳を傾けながら程好い温度のマグカップを引っ張れば、カチャン。 お皿にぶつかって高い音を立てた。

マグカップになみなみと注がれたココアはたぷんと危うい動きを見せたが、結局、零れはしなかった。






*






ガチャン。玄関を開けた途端に美味しそうな匂いが漂ってきて、思わず鳴き出しそうなお腹をさすりと撫でる。
コンロの前で鍋を掻き回している見慣れた背中に『ただいま』よりも先に呆れた声が出てしまうのも慣れたもので、


「…ほんと、きみもよくやるよね」
「お帰り」


振り返ったキューティーフェイスは、あたしの言葉なんてちっとも気にしていないような鉄壁のキューティースマイルで家主を迎える。
この顔に多くの女性は癒されるのかもしれないが、あたしはどっと疲れる少数派なので止めて欲しい。


「お帰り」
「……、はい。ただいま」


色々あって合鍵を渡した日から、彼は暇さえあればこうして料理を作ってくれる。
世の中には半同棲なんて言葉もあるけれどあたしたちの場合そうではなく、謂うならばこれは『半同居』で、ルームメートのような関係だ。



「ビーフシチュー?」
「当たり」
「暑くなってきたからもうシチュー系はないかと思ってた」
「カレーの時よりは少なめに作ってあるけど多分残るから、冷めたら冷蔵庫な」
「忘れないように頑張りたい」
「俺も気を付けるけど、まぁ最悪明日の朝でも平気じゃない?」
「あー、朝はまだそんな暑くないもんね」


去年の夏はうっかりコンロにカレー鍋を放置しちゃって、 でもそんな変な臭いはしないし火に掛けるから別に良いかなと思って食べたことがバレて彼に物凄く怒られたのだ。
語られた食中毒の怖さよりも、唇だけで笑顔を作る彼が怖かったのでもう二度とやりませんと固く誓いました。
きみはあたしのお母さんかな?なんて、もし口にしていたら説教の時間が倍になったに違いない。


「着替えたら運ぶの手伝うね」


後ろ手でぱたんと部屋の扉を閉めて、そのまま背中を壁に押し付ける。
……大事にされている。と、思う。すごく。
彼の方があたしなんかよりずっと忙しいのに、こうして料理を作ってくれて、しかも当たり前みたいにあたしの好みに合わせてくれる。


(ビーフシチュー、ほんとはあんまり好きじゃないって、知ってるんだよ。……言わないけど。)


下唇の内側をぐっと噛んで、ぱちんと両手で頬を叩く。
これは勝負なんだ。切り替えろ。あたしは絆されたりなんかしない。優しくなんかされたくない。嬉しくなんかない。違う違う違う。

何度も何度も、言葉を刻むように繰り返す度に、心の柔い部分にペンが突き刺さるみたい。
そうして思い知るんだ。あたしの心臓はもうとっくに死んでしまったんだって。
もう全然痛くないし、これ以上壊れることなんてないから、好きなだけ引き裂いていいよ。


「もういいよ」






*






――思えば、椎名翼に出会ってしまったことが、あたしの人生最大の不幸だったんだろう。


「は?何あんた。馬鹿面でこっち見ないでくれる気色悪い」


色々あって浮かれていたあたしは、あの日、橋の上から今にも死にそうな顔をしてこっちを覗き込んでいる男にうっかり声を掛けてしまったのだ。
その結果開口一番に罵声を浴びせられたわけだけど。


「そもそもこの高さを飛び降りたところで死ねると思ってるの?」


打ち所が悪ければ。と、正直に口にしたらもっと酷い言葉が降って来そうだったのでへらりと笑って誤魔化しておく。
それから暫く橋の下と上で軽口を投げ合って、今考えれば何がどうしてそうなったのか全然わかんないけれど、 気付いた時には知ってる部屋のソファの上だった。…お互いお酒が回ってたみたいで何にも覚えてないから怖い。
まあ別に事故は起きなかったみたいだから良いけれど、何であたしがソファだったのかは納得いかないほんとに。

お互い第一印象は最悪だった筈なのに、―あ。だからこそ、かな?そこから妙に意気投合して気付けば下の名前で呼び合うようになってたの。


そんな関係が変わったのは、たぶん、あたしの所為。


もう全部投げ捨てたいくらい酷いことがあって、心も身体もズタズタで、彼を突き放した。
たぶんあの瞬間に、きみの心は生き返ったんだろうね。
酷いな、ほんと。今まであたしが何をしても全然響いてなかったくせに。いつでも死ねるような顔して笑ってたくせに。
――だから、


「今更優しくしないでよ」






*






上の階がどたどたと煩くなり、割れるような怒鳴り声にひゅっと息が詰まる。 頭の中が真っ白になって、爪を立てるように握り込んだ拳に、そっと何かが触れた。
そのまま柔らかく手を引かれ、やがて身体を包み込む温度にゆるゆると瞼が下りる。

とくとく。耳元で響く音が心地好くて、ほぅっと息を零した。――「やめて」。 ぱちっと瞼を押し上げて優しさから逃げるように両手でぐっと彼の胸を突っぱねる。


「触らないで」
、」
「やめてよ。もういいから。無理だから」
「でも、」
「あたし、何度も言ったよね?わかんないって。知りたくないって。あたしもう死んでるから。死んじゃったから、 今更どんなに優しくされても何にも返せないよ。全部意味ないんだよ」


どんなに大事にされても、きみがどれだけ愛してくれても、黒く塗り潰された心にはもう何も響かない。
だからもうあたしになんか構ってないで。自由に生きて。お願いだよ、翼くん。


「きみが見てるのはあたしじゃなくて、あたしの中のきみなんだよ」


きみはただ、死にそうな顔をしていたきみにあたしが押し付けたものを返してるだけなんだよね。


「心は一つしかないって、きみならちゃんと知ってるでしょう?」


泣き出しそうな顔をして息を吸い込んだ彼の唇に指先で触れて優しくなぞる。
口の端を吊り上げるように頬を押し上げれば、酷く澄んだ硝子玉がぐらりと揺れた。


「今日もあたしの勝ち」


もう何にも聞きたくない。
心臓へと伸びてきた手を振り払って、スイッチを切るの。








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心音とは別視点の、同じお話。