「あ、雨」 「え?降ってないけど」 「降るよ。ううん、もう降ってる」 「えぇ?…あ、ほんとだ」 ぽ、ぽ、ぽぽ、ぽたたた、たたたたん アスファルトを跳ねる粒。濡れたアスファルトの匂い。雨のにおい。 水を含んだ空気がわずかに空いた窓の隙間から部屋の中へ流れ込んでくる。 「よくわかったね。っと、洗濯物取り込まなくちゃ!」 「こんにちは」 「…こんにちは」 「お姉さんなら洗濯物を室内に避難させてるよ」 「あの人は姉じゃないよ」 「うん。でも、姉のような人でしょう?」 「…、……」 ここにいてと言い残し、ぱたぱたと駆けて行った彼女と入れ違いに訪れた静かな足音。 二人の間に血縁関係はない。家が近所で、彼が生まれる前から彼の母親と彼女が交流を持っていた延長の関係だ。 そして彼の母親は、単身赴任先で体調を崩した彼の父親の看病の為に数日前から家を留守にしている。 高校生の私に、小学生の考えはわからない。 私もかつてランドセルを背負った小学生だったけれど、少なくとも私はこんなに大人びた雰囲気を纏ってはいなかった。 「あの人、」 耳を澄ませていなければ聞き逃してしまいそうな細い声。 …あぁ、雨みたいだ。一番最初に落ちてくる雨粒。 「熱はもうないみたい。私がお見舞いに来たときにはもう、元気に起きてテレビを観ていたよ」 「…ふうん」 「心配で急いで帰って来たの?」 「別に」 「熱のときに一人は心細いもんね」 母親が不在の日だけでなく、彼は自分の家にランドセルを置いた後、当たり前のように彼女の家に帰って来る。 いつからそうしているのかはわからない。でも私は、あの日からじゃないかなと漠然とながら確信しているのだ。 どしゃ降りの中 傘も差さずに重厚な灰色の塊を見上げていた、あの日 彼は傘の下でそれを見ていた。 彼の身体には不釣り合いの大きな傘は、彼の手に握られたままその役割を果たすことはなく―― 差し出すことができなかったのだろう。雨を凌ぐ物を渡してしまえば、彼女は涙の言い訳ができなくなってしまうから。 そして私は、少し離れた屋根の下で そんな二人を見ていたのだ。 結露して曇り始めた硝子の向こう。二人が佇む空間だけが、世界から切り取られたように静かだった。 全ては一方通行で、彼女も彼も、自分の視線の先を映すことに必死で自分に向けられる視線になど気づく筈もなく。 「あ、英士くんお帰りー。濡れなかった?」 「傘持ってた」 「よく持ってたねー。置き傘してたの?あ、折り畳み持ち歩いてるんだっけ?」 「違う。降ると思ってたから持って行った」 「うそ!天気予報でも今日は晴天だって言ってたのに…!」 「俺は降ると思ってたよ」 「ううん、やっぱり英士くんはすごいなあ」 「じゃあ私そろそろ帰るね」 「え!ご飯食べてかないの?」 「病み上がりにご馳走になるわけにもいかないでしょう?」 「そんなの全然平気だよ。最初から休むほどでもなかったし…あ、プリントありがとね」 「うん。その様子なら明日は来られそうだね」 「行く行く。…あ、傘!持ってないよね?」 「駅まですぐだしこれくらいなら大丈夫」 「じゃないでしょ!英士くん、どう?」 「……。これからもっと酷くなるよ」 つい、と空を仰いでぽつり。 雨音で迷子になりそうなその声を、彼女はさも簡単に掬い上げる。 「ほら、大丈夫じゃないでしょ。駅まで送るよ。傘は好きなの持ってって」 「傘は借りるけど、送ってくれなくて良いよ。病み上がりでしょう?」 「夕飯の買い出しのついでだもん。卵切らしちゃってたんだよねー」 「でも、」 「俺が行く」 「…え、」 「良いの英士くん?」 「他に買うものは」 「んーと…だいじょぶかな。Lサイズお願いね」 お菓子とか買っても良いよ。財布を受け取る彼の頭が小さく上下した。 言葉少ない様子にも彼女はふわりと包み込むように微笑う。 雨の気配に気づかない彼女は、どうして一番最初に落ちてくる雨粒のような彼の言葉には気がつくんだろう。 私は雨には気づくけど、彼の細い声は耳を澄ませていても零れ落としてしまうこともあるというのに。 不思議な関係だと思う。 二人を繋ぐ糸は透き通るように細く頼りないのに、どうしてか、それが切れるとは思えないのだから――、 「邪魔をしてごめんね。あそこは大事な場所なのに、踏み込んでしまったね」 「…別に、」 「大丈夫だよ。これからもなるべく近寄らないから」 「……別に良いよ」 「え?」 「あなたはあの人のことを大事にしてるから。あの人も、あなたを大切に想っているから」 「…誰であっても、テリトリーを侵されるのを嫌うと思っていたんだけど」 「相手は選ぶ。それに、あの人の交友関係に俺は口を挟めない」 「……、そっか。…うん。きみのこと、少し誤解していたなあ」 「英士」 「え、?」 「英士だよ、さん」 たたん、たた、たたたたん アスファルトを跳ねる粒。濡れたアスファルトの匂い。雨の、におい。 水を含んだ空気がわずかに揺れて、静かな声が鼓膜を揺らす。 彼は知っているのだろうか。ほんとうの、雨のにおいを 六月の遠雷
傘の下、覗く三日月。涙の雨を泳ぐ舟。 -------------------------------------------- 小学生英士くんと不思議な関係。 |