お気に入りの手鏡を見つめて唇にリップクリームを塗る。
何度も、何度も。
厚く重ねて、わたしの本音を隠してしまおう。


どうか、上手に騙せますように。



おまじない



「おっせーよ


ツンと尖った唇は可愛く巻かれたマフラーからギリギリ顔を出して、
赤くなった鼻先をふわっと白い息が撫でる。

自転車のハンドルに凭れるように両腕を載せた結人は、わたしを見上げて不機嫌そうに眉を寄せた。


「ごめんね。でも、結人が時間通りに来てるなんて珍しいね」
「俺だって偶にはちゃんとするんですー」
「自分で偶にはって言っちゃうんだ?」
「ゆーとくん嘘吐けないから」
「うそつきー」


ふわっ、ふわっ、
白く染まる視界の向こう側で霞んだ結人が唇を動かす。

ふわっ、ふわっ、
待って。おねがい待って。このままじゃ溺れてしまうよ。


なんだか急に泣きたくなって、苦しくなって、きゅっと唇を結ぶ。
あんなに重ねたのにカサカサになってしまった唇をぺろりと舌で舐めて、深く深く息を吸った。


「結人はよく笑うね」
「ん?急にどした?まあ笑うけど」
「わたしね、結人が笑うの嫌い」


そっと両手で包んだほっぺたは手袋越しにもじんわりと冷たくて、
随分長いこと待たせてしまったんだなあ、と。へにゃり、眉を下げる。

もこもこミトンの手袋は初めてデートをした日の帰り際に結人がプレゼントしてくれた物だ。


「…俺、なんかした?」
「結人はいつもなんにも知らないって顔してるけど、ほんとはすごく気遣い屋さんで察しが良いよね」
「……なあ、なにこれ?」
「だから今日も早く来たの?…わたしが、今日結人にさよならするって気づいてたから、待ってたの?」


手のひらの中で結人が歪む。
大きな瞳を寂しく細め、慣れたように小舟を浮かべた唇から、ふわっ、白い海。


「俺のこと嫌いになった?」
「嫌いになりたかった」
「じゃあなんで?」
「…結人はね、一人だったら渡って行ける。その舟には一人しか乗れないから、わたしが乗ったら溺れちゃうよ」
とだったら溺れたっていい」
「わたしは嫌なの」
「俺じゃだめ?」
「うん。結人はだめ」


わたしは今、上手に笑えただろうか。

結人のようになりたかった。
彼のように、上手に笑える人になりたかった。
その笑顔一つですべてを騙せる人になりたかった。

だけどやっぱりわたしは下手くそだから、気づかれているんだと思う。
それでもお願い。もう少しだけ、このまま騙されていてね?


「すきだよ、結人。だいすき」
「…ん。俺もがすきだよ」
「こうやってずっと言い続けていれば、いつか心は空っぽになるのかなあ。 好きって気持ちを吐き出し続ければ、吐き出した分だけ軽くなれる?」
「そうだったら、一緒にいれた?」
「どうかな、…どうだろ。心は軽くなってもきっと今度は言葉に縛られる。呪いみたいだね」


わたしの中の結人への想いはきっとずっと重たくて、
吐き出すたびにわたしの心は軽くなるけれど、その分結人が沈むんだ。

…そんなのいやだな。


「結人のこと嫌いになりたかった。そしたらもう少し一緒にいられた」
「俺は今でもとずっと一緒にいたいって思ってる」
「ありがとう」
「でもやっぱだめなんだろ?」
「うん。だいすきだからさよならだ」


ゆっくりと近づいてきたわたしよりも大きな手が、そっとわたしの頬を包む。

わたしがお返しにあげた手袋、ずっと使っていてくれてありがとう。
カサカサの唇をきゅっと持ち上げて溢れそうな涙を誤魔化した。


「今だけは上手に騙されてやるよ」


ふわっ、ふわっ、
白い海に小舟が浮かぶ。

こつん、ぶつかった額からだいすきが剥がれた。



ぼくらは吐息でキスをする






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不器用な恋のお話。