はあ、はあ、大きく肩を上下させ短い息を繰り返す。
心臓はばくばくと別の生き物のように声を上げ、キイン、と耳鳴り。

(しんぞう、やぶれそう。)

どれくらいの距離を走ったんだろう。最後の一段をとんっと勢いを付けて上り切り、 ガクガクと震える膝にもう少し頑張ってとエールを送りながら立ち入り禁止の札が掛かったドアノブを回した。


「あ、ほんとに来た」


頬を撫でる冷たい風が火照った身体からじわじわと熱を浚い始め、運ばれた気の抜けるような声にがくんと膝が崩れ落ちる。
コンクリートの硬さに膝小僧がじんじんと痛みを訴えたけれど、今はそれよりも別の感情が勝った。


「来る、よ…!あんなメール見て、じっとなんてしてらんない」


膝を挟むように両手を付いたあたしのすぐ横、壁に背中を預けて立っていた藤代くんは情けない顔で彼を見上げるあたしににこっと可愛い笑顔を見せて、


「はい。喉渇いてると思って」


たぷん、透明な液体が揺れるペットボトルをあたしの顔の前に差し出した。


「あ、りがと」


色んな感覚が麻痺していたあたしはラベルの剥がされたペットボトルの中身が水だと疑わず、 けれど緩くなっていたキャップを回し口を付けた少し後に鼻が拾った匂いに拙いと思ったがもう遅い。
傾斜を滑りあっという間に口内に流れ込んできた独特な甘さがぴりっと舌に触れ喉に絡んだ瞬間、ごほっと胸を上下させ大きく噎せた。


「ッれ、なにっ?」
「サイダー」


つん、と鼻を抜ける痛みと息苦しさに助けを求めるように目じりがじわりと滲む。
溺れそうな視界よりまずは唇の端から零れた液体を拭う方が先だ。 親指で引っ張り上げた学校指定のセーターをごしごしと乱暴に擦り当てる。 袖口の部分がべたついてしまったが、後で洗えば済むことだ。


ちゃん炭酸ダメだったっけ?」
「…あんまり得意じゃない、というか、」


全力疾走の後に一気飲みしたら藤代くんだってこうなると思う。
ごにょごにょと濁した言葉が聞き取れたか否か、藤代くんはごめんね?と楽しそうに首を傾げ、あたしと目線の高さを合わせるようにしゃがみ込む。


「だいじょーぶ?」


そうして、今度は眉と眉をきゅっと寄せてあたしの顔を覗き込むものだから、 さっきとは反対の袖口で涙を拭って大丈夫だと頷くしかないのだ。

(この人は自分の顔の活かし方を知っているなあ。)

少しずつ落ち着きを取り戻し、酸素を取り込むこと以外にも回せるようになった頭でぼんやりと思いながら、いつの間にか正座をしていた足を横に崩す。
ほんのりと赤くなった膝小僧は見なかったことにしよう。これ絶対痣になる。


「戻って来て良かったの?」
「、へ?」
「折角今日はサッカー部が休みで、久しぶりに三上先輩とデートだったんだろ?」
「あー…うん。良いよ。亮くんとはいつでも会えるし」


妙なメールを送っておいて何を、と思わないでもないが口には出さず曖昧に口角を上げる。
それに、先約とはいえ次がある彼と、二度と会えなくなるかもしれない目の前の彼となら、あたしは迷わず後者を取る。


「ふうん」
「…それより、どうしたの?」


あたしが駅前から学校の屋上まで全力疾走することになった原因である藤代くんに問えば、 彼はまた可愛く笑って、「暇だったから」。こてん。首を傾げたけど今度は誤魔化されない。


「あのね、暇だったからであんなメール送られたら誰だって怒るよ?」
「怒った?」
「怒ってるの」
ちゃん怒っても怖くないね」
「…そういう問題じゃなくて、」


はあ。大きく息を吐けば、藤代くんはいつの間にかあたしの手から抜き取られていたペットボトルをくっと傾けてこくりと喉を上下させた。


「…藤代くん」
「だーいじょうぶだって。俺、自殺するように見える?」
「……」


見える。と言ったら彼はどうするのだろう。

藤代くんは明るくて、よく笑って、すぐ拗ねるけど機嫌が直るのも早くて、クラスでも部活でも彼を中心に輪が出来る。 背が高くてスポーツが得意で、勉強はそこそこだけどここは落とせないというテストではしっかり及第点を取るし、 ちょっと無神経なとこも愛嬌のある笑顔を見れば許したくなってしまう。

いつも楽しそうな印象の強い彼は、後ろ暗いこととは正反対の位置に居るように見えるけれど、でも、人生何があるかわからないじゃないか。

当たり前のように次があると思って碌な説明もせず置き去りにした亮くんが、 もしかしたら今どこかで事故に遭っているかもしれないし、あたしだって十秒後には心臓が破裂しているかもしれない。 それに―、


「藤代くん、笑うの下手になった?」


こくりとサイダーを飲んであたしに問い掛けた彼の笑顔は、少し歪んでいた。


「…、うっわあ。ちゃんチョー失礼ー」
「それあんまし藤代くんには言われなくないよ」
「ほらまたそーやって。俺スゲェ傷付いたし」
「えー。ごめん?」
「ダメ。全然足んない」


ぷくっと頬を膨らませた藤代くんに面倒だなあと苦笑い。一体あたしにどうしろと。 取り敢えずもう一度謝ってみようかと舌を動かしたところで、「慰めて」。透き通る声。 …もう、ほんとうに困った人だ。

両手を広げてあたしをじっと睨み付ける藤代くんにわかりやすく息とともに肩を落として、膝立ちで僅かな距離を詰める。 胡坐を掻いて準備万端な彼の頭を包むようにそっと両腕を回せば、あたしの背中にぎゅうっと逞しい腕が絡み付き、鎖骨を熱い息が撫でた。


「おっきい子供みたい」
「だってまだ子供だもん」
「はいはい」


ご機嫌な吐息がくすぐったい。
この大きな子供は意外にも素直じゃなくて、時々こうして上手に喋れなくなるようだ。

(構って欲しいなら最初からそう言えば良いのに。)

甘え上手なくせして肝心なところで下手くそめ。

ばくばくと騒ぎ始めた心臓の音は二つ分。
素直に言葉にしてくれたなら、あたしだってちゃんと伝えるのにな。



魚の骨とグッドバイ


(亮くん?お兄ちゃんですけど?)






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振り回されているようで、知らず知らず振り回しているかもしれないよ。というお話。
Chalkのれもんさんへ下心いっぱいの貢物です。 タイトルもお借りしました。