きっとこういうのがトラウマになって、犬嫌いになるんだろうなあ。



犬、飼い始めました。



「とりっくあんどとりーと!」
「…」
「…あれ?ちゃん、とりっくあんどとりーと!」
「……藤代くん、なんか色々と間違ってるよ」

ずずいと差し出された両手に取敢えず洗ったばかりのボトルを落とす。
今日の練習はもう終わって、わたしは片付けの真っ最中だ。つまり、邪魔。
シッシと手を払いたいところだけどその時間が勿体ないのでがしゃがしゃとボトルを洗う。

ちゃん」
「…」
ちゃんってばー」

くいくいとジャージの裾を引っ張られ、面倒だと思いながらちらりと横を見ると
三角の耳をしゅんと折り曲げた犬と目が合う。
…あ、違った。藤代くんの耳は三角じゃないし勝手に曲がったりしない。
じいっとこっちを見ている藤代くんに、今度はタオルを渡してみた。それでボトルを拭けば良いよ。暇なら手伝え。

「……とりっくあんどとりーと」

まだ言うか、この犬。
はあ、とあからさまに溜息を零してきゅっと蛇口を捻る。後はボトルを拭くだけだ。

「あのね、藤代くん。それを言うなら『trick or treat』だし、ハロウィンはまだ先だよ」

そして一番の間違いは、その台詞をわたしに言ったことだ。
なんでわたしが藤代くんにお菓子をあげなきゃいけないの?ちょっとだけ眉を寄せる。

「だって次の練習11月じゃん」
「そっちのがまだハロウィンに近いと思う」

10月の頭にハロウィンとか言われてもねー。
わたしの言葉にむうっと頬を膨らませてボトルを拭く藤代くん。
中学生の男の子の態度だとはとても思えない。どれだけ子供っぽいんだ藤代くん。
まぁ、ちょっと可愛いなーとは思うけど、別にわたしは藤代くんファンじゃないからその攻撃は無効。
さっさと諦めて帰れば良いよ。
わたしはこのボトルをコーチの車に乗せて、玲さんに来月の予定を確認して柾輝たちと帰るんだから。

「お菓子くれなきゃ悪戯するよ?」
「お菓子くれても悪戯するんでしょ?」

あげてもあげなくても悪戯されるんだったらわたしに何のメリットもないじゃないか。
というか、悪戯されるつもりもない。上下関係はしっかりわからせなきゃいけないって、犬の本にも書いてあった気がするし。
全部のボトルを拭き終えてタオルを畳んで一緒に籠の中に入れる。
藤代くんが手伝ってくれたからいつもより早く終わった。だから一応ありがとうとお礼を言う。

「それ持ってくの?手伝うよ」
「ありがとう。でも大丈夫だから藤代くんは早く帰った方が良いよ」
「…やだ!」
「……うん?」

コノヤロウ。疲れてるんだからさっさと帰って休めよ。
わたしの手から籠を奪って走って行った藤代くんを見ながら溜息を一つ。
選手のサポートをする立場であるマネージャーが、選手を扱き使ってるって思われたらどうしてくれるんだ。
コーチはきっとそんな誤解しないと思うけど、でもわたしの信用に関わる。
反抗期かなーと思いながら走って行った藤代くんは放っておいて玲さんのところへ向かった。


「…あ、ちゃん!」
「……藤代くん、まだ帰ってなかったの?」

鞄を持って柾輝たちのところへ行ったら、予想外のオマケが一緒にいて驚く。
にこにこと笑いながら駆け寄ってきた忠犬もどきを見て、ごそごそと鞄を漁る。

ちゃん…?」
「あげる。手伝ってくれたお礼」
「やりぃ!ありがとちゃん!」
「ッくるし、い…」

鞄に入ってた105円のクッキーを差し出すと、何を間違ったのか藤代くんはわたしの腕を掴んでぐいっと引っ張った。
その勢いのままぎゅうっと締められて潰れたカエルみたいな声が漏れる。
ぐええ、と圧死されそうだったわたしはひょいっと後ろに引っ張られて締め付けから解放されると、代わりに柔らかいものに背中がぶつかった。
顔を上げれば、かちりと柾輝の視線とぶつかる。
ぽんぽんと頭を撫でられて体勢を整えると、目の前では脇腹を押えて蹲る藤代くんと、その横で仁王立ちする翼くん。
ロクはちょっと離れたところで蹲る藤代くんを気の毒そうに眺めてた。

「いってぇ…」
「馬鹿じゃないの体格差考えろよ」
「しょーがねぇじゃん。てか椎名こそ加減しろよなー」
「黙れ馬鹿犬。も避けるなり足踏むなりすれば良いだろ。ほんっと馬鹿!」
「翼くんに比べれば大抵の人が馬鹿だと思う。ね、柾輝」
「俺に振るな」

教訓、大型犬が飛びかかって来たときは潰される前に逃げましょう。
帰んぞ。と、ちょっとだけ疲れたように笑った柾輝に頷いて歩き出した。



「…うん、そっか。大変だったんだね」
「締め技を覚えるのは良いけど、飼い主で実践するのは間違ってると思うの」
「そうだね、二度とこんなことがないようにの代わりに俺がしっかり躾とくから安心して」