ぽたりぽたり、高く結わえたポニーテールのしっぽの先から項を伝って落ちる水が火照った身体を冷やして行く。 ツンと痺れた鼻は、まだ夏の香りを覚えていた。 「お前あいつに何かしただろ」 9月も終わるというのに未だに響き渡る蝉の声がぴたりと止んだ。 すぅ、と息を吸う。音という音を全て吸い込んでしまった錯覚にくらりと脳が揺れ、 吐き出せば何事もなかったかのように一斉に蝉たちが息を吹き返す。 ――嗚呼、うるさい。 「何の話?」 「とぼけんな」 「とぼけるも何も、そもそもあいつって誰よ」 汗を掻いたグラスを両手で掴んで目線だけを隣に向ければ、馬鹿みたいに真剣な顔をした結人が、「一馬」。と、呟いた。 なに、らしくない顔してんの。身体の内側がツキンと痛んだ気がしたけれど、 大きく息を吐けばもう何も感じなくなっていたから多分気の所為だ。 「それ、真田くんが言ったの?」 「あいつは何も言ってねえ」 「ふうん」 「何したんだよ」 「そっちこそ何勝手に人のこと悪者扱いしてんのよ」 コツコツコツ、彩られた長い爪はグラスにぶつかる度にイライラと音を立て、張り詰めた空気にヒビを入れて行く。―「」。咎めるように名前を呼ばれて、ぱきん。見えない何かがカラカラと崩れた。 「昨日偶然真田くんに会って、好きだって言われたから付き合おうって言っただけ」 告白された。だから答えた。悪いことなんて何もしてない。 それなのに、なんで 「痛ッ、なに?、離して。ちょっと結人!」 強い力で手首を掴まれ、グラスが手から滑り落ちる。ああ、多分割れたな。 テーブルの上をころころと転がって消えたグラスの末路を甲高い音が知らせるが、 生憎あたしは引き摺られるままにソファから遠ざけられているので確かめることは出来ない。 こうなった時の結人は何も言っても無駄だ。 足を踏ん張っても叩いてもびくともしないし、こんなに近いのに、あたしの声なんて届いてすらいない。 だからあたしは形だけの文句を投げて、後はもうされるがままに引っ張られて行く。 「!ッ」 洗面所で立ち止まったと思えば強い力で背中を押され、結果お風呂場の冷たいタイルに膝を強かに打ち付けた。 最低だ。誰だよ若菜結人は女の子にとっても優しいとかほざいてたやつ。 こいつがあたしに優しかったことなんて過去を遡っても一度もないのに。 「ひぅっ」 記憶を漁っていたあたしに現実を突き付けたのは突如降って来た冷たい水で、驚いて引き攣った喉から変な声が漏れた。 「頭冷やせ。付き合ったってどうせまたすぐ別れるんだろ。だったら一馬は止めとけ」 いい加減にして欲しい。耳朶を打つシャワーの音に感情が冷めて行く。 「…何なの。あんたが話あるから家に来いってメールしてきたからこっちは態々来てやったんでしょ? それなのに初っ端から勝手にキレて挙句人引き摺ってシャワーぶっかけるとかどういう神経してんの」 あたしが今日、どんな思いで此処に来たか知らないくせに。 きゅ、とコックを捻って立ち上がる。 高く結わえたポニーテールのしっぽの先から項を伝って落ちる水も、ツンと痺れた鼻も、 ぴったりと貼り付いたお気に入りの服も、全部が全部気持ち悪い。 「…お前が、が一馬のこと好きじゃないくせに付き合うとか言うから悪い」 「なに、それ。好きじゃないって、なんで?何であんたにわかるの」 真っ赤な顔で好きだと言った真田くんは、あたしの返事に目を瞠って、寂しそうに、傷付いたように笑った。 ああ、そうか。この人は、わかってたんだな。透けてたんだな。それでも伝えてくれたんだな。 ―ずっと逃げてた、あたしと違って。 「が好きなのは俺だろ」 ぐにゃりと歪んだ視界いっぱいに広がる結人の、馬鹿みたいに真剣な顔から、すぅっと表情が消える。 ……嗚呼、どうして。 「だったら、何?昔から結人があたしに見向きもしないの知ってる。 …真田くんは駄目?なんで?あんたと同じことするだけじゃん。 当て付けみたいにあたしの友達とばっか付き合って、なのにあたしに彼氏が出来ると邪魔して。 あたしの気持ちに答えるつもりもないくせに、あたしが結人以外を好きになるのも許さないとか、何様だよ。ほんっと最低」 真田くんと付き合えば、きっとあたしは彼を好きになる。 結人と違って優しいし、意味の無い嘘を吐かないし、あたしのことを女の子扱いしてくれる。 それに、真田くんは結人の大切な親友だから、付き合ってしまえば今までみたいに邪魔されることはないだろう。 「あたしはいつまで、あんたの手のひらの上で転がればいいの?」 もう嫌だ。もう、これ以上粉々にはなりたくない。 だってそうでしょ?結人の中にあるのは子供染みた独占欲…違う、征服欲だ。 そんなものにあたし一人振り回されて、少しずつ毀れた心はもう拾い集めたって元には戻らないのに、―なのに、 「じゃあ聞くけど、俺以外のやつ好きになれんの?」 「自惚れないでよ」 「今までだって結局無理だったくせに」 「そ、れは…結人が邪魔するから」 「続かないのは俺の所為だって?違うだろ。その程度だったんだよ」 他の人に少しでも心が傾く度に、絶妙のタイミングで手を伸ばす結人が悪い。 だけど、何度繰り返しても一瞬の優しさに惑わされてしまうあたしは、もっと悪い。 濡れた身体は冷たい筈なのに内側が酷く熱くて、温度差にくらり、眩暈を起こす。 「は一生、俺以外を好きにはなれねえよ」 これは、呪いだ。 真っ直ぐ伸びて来た指先が額に貼り付いた前髪を丁寧に払う。 頭の形をなぞるように後ろに回って、高く結わえたポニーテールのしっぽの先に、くるり、指を絡めて。 睫毛をくすぐる吐息に、どろり、熱がとける。 「な?そうだろ」 こんな感情、消えてしまえばいいのに。 薄く開いた窓から蝉の声が響き渡る。ツンと痺れた鼻先に、夏の残り香。 ゆらゆらと揺れる視界を、冷たい手のひらがそっと塞いだ。 この恋は、いつ死にますか? -------------------------------------------- 愛情表現が歪んでしまった二人のお話。 +++ 「Chalk」のれもんさん主催企画サイト「honey&salt」の第二回にSalt sideで書かせていただいたお話です。 タイトルもChalkさんよりお借りしています。 |