一目惚れだと、彼は言った。 お気に入りのカフェで相席を頼まれ二つ返事で了承した私の正面、 馴染みのスタッフさんに案内されてやって来たその人は、耳触りの良い声で、「お邪魔します」。と告げて腰を下ろした。 今思えば、きっと私もその瞬間に彼に惹かれていたんだろう。 大学の近くにあるそのカフェには毎週火曜日の空きコマに時間潰しで通っていて、彼と再会したのは相席をした次の週。 前回と全く同じ流れで再び私の前に現れた彼は、本から顔を上げた私と目を合わせると、「またお邪魔します」。と、 無邪気さを滲ませる笑顔で、あの心地良い声を奏でた。 そんなことが毎週繰り返されれば、お互いの名前、年齢、好きなケーキ、本、アイドルなんてものまで共有するようになり、 ついには連絡先まで知ることになった時、彼は言ったのだ。 「実は一目惚れなんだ」 と、あの声で。 そうして私たちは、まるでこうなることが当たり前だったかのように恋人になった。 二つ年上の潤慶はユーモアに溢れた人で、彼と一緒にいて笑わない方が難しく、 子供みたいな無邪気さを持ち合わせていながらに博識な彼は、 異国の血を引いていながら純日本人である私よりも日本文化に精通していたのでレポート提出の際には何度も助けられたものだ。 そして何より、彼はとても優しかった。 潤慶といると私はいつだって温かな毛布で包まれているような安心感があり、 けれど彼は私を甘やかすだけではなく私が間違ったことをした時は「それは違う」ときっぱり告げて、 意固地になっている私を丁寧に解して正しい方へと導いてくれた。 ちょっとした口調や仕草から潤慶が私を大切にしてくれていることがわかって、 彼が目許を和らげて私を映す度に、胸の辺りがじんわりとこそばゆくなるのだ。 そんな私たちだから、私と彼の関係を知る人たちは口々に似合いのカップルだと微笑んでくれたし、中にはバカップルと険のない声で茶化した人もいる。 きっと、誰の目にも私たちは理想の恋人像として映っていたのだろう。 「なに見てるの?」 一人暮らしの私の部屋に彼を招いた数など指折りでは追い付かない。 ベッドに凭れて視線を手許に落とす私に、テレビに飽きたのかクッションを抱えた潤慶が擦り寄って来た。 彼が抱きしめているクッションは付き合い始めて暫く、初めて彼を部屋に招いた時に、 「大変だ。物が少な過ぎるよ!」。と大袈裟に騒いですぐさま私の手を引いて買いに行った物の一つだ。 こんなにもリラックマが似合う成人男性を私はユン以外に知らない。 「友達に押し付けられたカタログ」 「目がちかちかする」 「ね」 私と潤慶が恋人同士になってから季節は巡り、私は次の春で大学を卒業する。 出会ったのが19歳だったので彼とのお付き合いもそれなりのものだ。 潤慶はお国柄もあるのかイベントをとても大切にする人で、それ以外でも何かと私に物を与えるのが好きらしく、 私は出会ってから今日までに彼から様々な贈り物をもらっているが、ただ一つ、一度ももらっていない物がある。 「宝石がいっぱい付いたのより、にはこういうののが似合うよ」 それは、恋人を象徴する物、指輪だ。 彼からもらった物は形に残る物から残らない物まで本当に様々で、その中にアクセサリーも含まれてはいるが 指輪だけは贈られたことはないし、揃いの物を買おうと話したこともない。 長い付き合いなのに私の指がいつもガラ空きなことに気付いた大学の友人が、「この前彼氏と見に行った」のだと、 鞄の中から取り出したカタログをそのまま私に押し付けたのだ。 「うん、私もあんまりごちゃごちゃしたのは好きじゃない」 「だと思った。ぼくにはどれが合うと思う?」 「そうだなあ…」 こつん、と頭がぶつかる程に近い距離でカタログを覗き込む。 これはどうかな。とか、こっちもいいね。なんて、二人指を差し合って微笑む穏やかな時間は私の胸を温め、ぐずぐずに溶かしていく。 ふと目が合うと潤慶は優しい目許を柔らかく細め、まるでそうなることが当たり前のように唇が重なった。 ユンが好き。ぐずぐずになった思考の中でその言葉だけが鮮明に浮かび上がる。 「好きだよ、」 彼も同じなのか、とろけそうな声を奏でた。 …ああ、もうだめだ。 「指輪欲しい?」 私の髪に指を通しながら、潤慶が耳許で囁くものだから、まるで私は導かれるように、こくん、頷いた。 「明日起きたら一緒に見に行こう」 彼の手料理を美味しく頂いた後、洗い物をする私の背に掛けられた言葉は主語が抜けてはいたが聞き返さずとも指輪のことだとわかった。 それだけの時間を一緒に過ごしたのだから当然とも言える。 洗い物が終われば彼の隣で一緒にテレビを観て、順番にシャワーを浴びて、シングルサイズのベッドに二人、ぴたっとくっついて眠る。 背中から私を包む温もりに、私はいつも通り安心しきった赤ん坊のように音もなく眠りに落ちていく。 完全に意識がなくなる前、ぎゅっと更に身体を引き寄せた彼が耳許で囁いた異国語の意味を、私は知らない。 「……」 目が覚めると、彼はいなかった。 触れたシーツからは彼の温もりは欠片も感じず、一体いつ出て行ったのだろうかとぼんやりとした頭で考えながら、ゆっくりと毛布を抜け出す。 先に起きてシャワーを浴びているとか、ちょっと散歩に出ているとか、そういうことではないのだろう。 涙は出ない。昨日、指輪のカタログを彼の前で広げた時点で、こうなることを知っていたからだ。 「こういうとこ中途半端だなあ、ユンは」 昨日部屋に訪れた時に持っていた鞄は勿論、揃いのコップも歯ブラシも、 彼が使っていた物は全部なくなっているのに、テーブルの上には美味しそうな朝食が置かれている。 痕跡を残さず行くのならこれは余計だろう。まあ、食べてしまえば消えるけれど。 付き合う前も含めて彼からもらった物は全てわかりやすい場所に纏めてあるので、それを捨ててしまえば全て終わりだ。 次の燃えるゴミの日はいつだったかなあ、とぼんやり脳内のカレンダーを捲りながらラップを剥がす。 レンジまで行くのが億劫でそのまま齧り付いた冷たいフレンチトーストは、 料理上手な潤慶が作ったとは思えない程に美味しくなかった。 「フレンチトーストは甘いのしか認めないって言ったのになあ」 間違えたのではなく、敢えて塩で味付けたんだろう。 サプライズが好きな彼は度々私を驚かせたけれど、これはまた何とも子供染みた悪戯だと思わず笑って、 忌々しい味を強引に胃の中に押し込んだ。 私と潤慶は誰が見ても仲が良い理想のカップルで、恋人という立場の私から見ても彼は間違いなく理想の男性だった。 私はそんな彼が好きだったし、彼も私を好きで、大切にしてくれていたのは間違いない。―けれど、 「それでもやっぱり、だめだった」 私は確かに彼に惹かれたし、好きだったけれど、恋はしていなかった。 そしてそれは彼に限ったことではなく、昔から私には人を愛するという感情が欠けていた。 潤慶と付き合う以前にも何度か恋人がいたことはある。 世間一般の恋人たちと同じように、手を繋いで、抱きしめて、キスをして、それ以上のこともしたけれど、 互いへの好意を大前提とした行為はそれ以上でも以下でもなく、私の心を躍らせることはなかった。 過去に付き合った恋人のことも、潤慶のことも、好きだった。嘘はない。 だけど、切ない程に想いを寄せたことなど一度もないのだ。 例えば今すぐ潤慶が住むマンションに行ったとして、そこに裸の女がいても憤りを覚えるどころか悲しみさえ感じないだろう。 …実際そんなことをするつもりもないし彼に限ってそれはないと思うので単なる例え話ではあるが。 潤慶の隣は心地良かった。向けられる眼差しも、耳触りの良い声も好きだった。 過去の恋人たちは私の淡泊な部分が露見するとすぐに離れて行ったが、彼だけはそっと包んでくれた。 だからこそ、時々、ふとした瞬間に、「このままではいけない」。と思ったのだ。 きっと昨日、指輪が欲しいかと訊ねた彼に否と答えていれば、彼は今もこの部屋にいただろう。 理想の恋人であった彼は、私が欠けた人間であることなど初めから知っていたのだから。 そして私も、彼が私と同じであることを知っていた。 あの日、一目惚れだと告げた彼の柔らかな目は、鏡に映る私のそれと同じだった。 人を愛せない私たちは、作り物の恋人たちを真似るように恋人同士として振る舞っていたのだ。 互いを大切に想う心はあっても、決して恋愛の出来ない私たちが他人の目には理想の恋人像として映っていたのだから、とんだお笑い種だ。 私か彼、どちらかが持っている人間であったのならばこんな形の終わりは訪れなかっただろう。 揃いの指輪に意味など見出せない私たちだけれど、互いを大切に想っていたのは確かだから―。 「…だからこそ、ユンにはユンを心から愛してくれる人と、一緒になって欲しいよ」 あなたもそう思ってくれたんだよね。 片付けようと持ち上げたお皿の下、ルーズリーフの切れ端に踊る、見覚えのある整った文字。 一秒でも早く、ありのままのを愛してくれる人に出会えますように。 -------------------------------------------- お互いを大切に想っていた恋人たちのお話。 +++ 「Chalk」のれもんさん主催企画サイト「honey&salt」の第一回にSalt sideで書かせていただいたお話です。 タイトルもChalkさんよりお借りしています。 |