あーもうメンドクサイ!頭を掻き毟りたい衝動をぐっと堪えて舌を打つ。
近づいてるんだか遠ざかってるんだかわからない声に背中を押されるように走ること数十分。
見るからに悪役って感じの人(しかも複数)に待てと言われて素直に待つ馬鹿が何処にいるんだか。…あ、うちの素直なワンコなら待つかも。
こんなどうでも良いことを考えられるくらいだからあたしも案外余裕だな。
―多分、そんなどうでも良いことを考えてたのがいけなかったんだろう。曲がり角で体に衝撃が走った。


「ってぇ、どこに目ぇ付けてんだ!」
「頭の後ろに目があるような面白人間じゃないことは確かだけど。悪いけど急いでるからさよーなら」
「ちょっと待て。詫びの一つくら、い……」
「前方不注意だったのはそっちも同じでしょうが。てことで今度こそさよーなら」
「だから待てって!お前、俺のこと忘れたのかよ」


通り過ぎようとしたのにがしりと肩を掴まれたので仕方なく足を止める。
嫌々ながら顔だけで振り返り、更にその顔を歪めて見せた。


「初めましてロン毛のお兄さん。ナンパなら暇そうなお姉さん相手にやってくださいな」
「だから初めましてじゃねぇんだよ。お前だろ?死んだかと思ってたけど生きてやがったのか」
「そのナンパの仕方はどうかと思うけど。てことで急いでるから放して」
「ナンパじゃねーよ!つーかお前何でそんなに急いでんだあ?」


怪訝そうに眉を寄せるゴツイ男にこれまた盛大に顔を歪めて大きく息を零す。
てか急いでるって言ってんだから理由なんて訊かずにさっさと放せっつーの。ほんっとウザいわあ。


「…お前がなに考えてんのかよーくわかった」
「あらほんと?じゃあもう行っても良いかしら……とか言ってる間に追いつかれちゃったし」
「あ?って、何だぞろぞろと。今度は何しやがったんだお前」
「人聞きの悪いこと言わないでよね。ただちょっとしつこいナンパを断るついでに転ばせただけよ」
「やってんじゃねーか!」
「正当防衛です」


きっぱりと答えつつ力が弱まった手を振り落とし、ついでとばかりに男の膝裏を蹴り飛ばして体勢を崩させる。
思惑通りに身体を前に傾けた男は、これまた思惑通りに転倒を防ぐために足を一歩前に出した。


「てっめ何しやがんだ!」
「後は任せた」
「はあ!?」
「あんたの所為で追いつかれたんだからこれくらい当然でしょ」
「自分でどうにかできんだろーが!」
「疲れたから無理。それにこの手はあんたの専門なんだから仕事だと思ってやれ」
「じゃあ金払えよな…つーか、やっぱ俺のこと覚えてんだろお前!」
「あ、ほらほら余所見してると危ないよー」
も手伝いやがれっ!」



*



「はいお疲れー」
「…っめ、まじで何もしなかったな」
「してたじゃん。応援」
「……」
「いやあ、鳴海くんの腕が落ちてないみたいで良かった良かった」
「当たり前だろってかやっぱ覚えてたんじゃねーか!ったく、無駄な嘘吐いてんじゃねーよ」
「あたしがいつ覚えてないって言ったの?」


そもそも嘘は言ってない。こいつが知ってるのは死ぬ前のなんだからあたしとは初めましてで良いのだ。
―ま、そんなことこいつは知らないだろうけど。


「相変わらず屁理屈ばっか言いやがって」
「そっちこそ相変わらず暑苦しい髪形しやがって」
「んだと!?」
「あ、ごめん間違えた。存在自体が暑苦しいんだった。ごめんね」
「……お前が女じゃなかったら殴ってるぞ」
「あたしが男だったらそれこそ殴れるわけないじゃん。…と、お遊びはこれくらいにして。暇ならちょっと付き合って」


何か言いたげな鳴海はスルーして地面と仲良くしている男どもが起きる前に場所を移す。
人混みに紛れるつもりで走っていたからここはもう入口に近い。遠目でもわかる煌びやかなホテルのレストランで一息入れることにした。


「で、何の用だよ。こんなとこ入って金あんのか?」
「鳴海の奢りでしょ?」
「はあっ?!」
「てのは冗談で、お茶くらい奢ってあげるわよ。それでさっきのことはチャラね」


にやりと笑って黒い液体を胃に流し込む。…うん、高級レストランだけあって美味しいけど、あの喫茶店のコーヒーの方が上だな。
仏頂面の鳴海から少し視線をずらせば騒がしいというか賑やかな団体様が中に入って来るのが見えた。
中年のおっさんばかりの団体はボーイに案内されて所謂ビップルームへと進んで行く。


「お、すっげぇ美人」
「じろじろ見ないの」
「素人にゃ気づかれねーよ。…つーか見たことあると思ったらあの美人西園寺玲じゃねぇか。本物見れるなんて超ラッキーじゃね?」
「ラッキーもなにも、有名人御用達のホテルなんだから政界の人間が一人や二人いても可笑しくないでしょ」
「まぁそーだけどよ…お、今こっち見て笑ったぜ!俺に気があんのかも」
「鼻の下を伸ばしまくってるダラシナイ男の視線がしつこかったからじゃない?」


くるりくるりと回るスプーン。溶かすものは何もないから全くもって意味のないこの行為。
テーブルの上に飾られた花は彼女の胸元の赤と同じ香りと棘を持つ。まるであの人そのものだ。
かちゃん。中身がまだ残っているカップをソーサーに戻して立ち上がる。


「出るよ」
「まだ残ってんじゃねーか」
「好みじゃなかったから喫茶店で飲み直す」
「あいっかわらず我儘だなお前は」
「鳴海と違って舌が肥えてるからね」
「てっめぇ」


抜き取った一輪の薔薇の茎を短く折って髪に挿せばあら不思議、妖艶に微笑む女性の視線を独り占め。
すぐに逸らされたけど、彼女がほんの一瞬だけ胸元の薔薇に触れたのに気づけないほど視力は衰えていないのだ。


「また勝手にそんなことしやがって…てか血ぃ出てんぜ」
「ん?あ、ほんとだ」


ぷくりと膨らむ赤い雫は、見慣れている筈なのに何故かとても綺麗に見えた。



ひらに
「…うげ、美味しくない」