真っ黒い海の中で、誰かの首を絞めていた。
キリキリと骨の軋む音を指先から聞きながら、黒い顔をしたそいつはあたしを見上げて笑った。


「酒弱くなったんじゃね?」


カラン、涼しげな音を立てた氷がグラスに溺れる。
ふと顔を上げればカウンター越しの男があたしの手から奪っただろう酒の入ったグラスをゆらゆらと揺らしていた。


「とんでた?」
「一秒くらいな」
「あー、ごめんごめん。ちょっと寝不足で」
「見ればわかる。酷い顔」
「ちょっと、こんな美人相手に失礼ぶっこいてんじゃないわよ」
「俺、自意識過剰なやつって嫌いなんだよね」


前髪の隙間で漆黒がしなる。
にっこりと嫌味なくらい綺麗に笑った男からグラスを引っ手繰って、一気に呷った。


「おっイイ飲みっぷり」
「そりゃどーも」
「そんなお客さんにはサービスで特製カクテルをプレゼント」
「過剰サービスお断り」


きっぱりと告げるも目の前の男(無駄にイイ笑顔)はシェーカーを手慣れたように操って、
完成したカクテルを新しいグラスに注ぎ、つい、とあたしに差し出すんだから堪ったもんじゃない。


「ねえ、いらないって言ったんだけど」
「金取んないから」
「そういう問題じゃないの。あんたのカクテルって良いのは見た目だけでドギツイから嫌」


カクテルグラスに波紋を描く、海のように深い蒼。
見た目だけなら一級品。だけどあたしは、この本質を知っている。


「見てくれに騙されてうちのが何人やられたと思ってんのよ」
のとこのが弱いんだろ。揃いも揃って図体ばっかで情けない」
「自分が恵まれなかったからって、随分な言い種ねぇ。筧くん?」


にやり、口許を綺麗に歪めれば隙間から漆黒が刺さる刺さる。


「根に持つやつも嫌いなんだけど」
「あら、同族嫌悪?」
「あーぁ、ほんとムカツク」


にっこりと笑ったまま毒を吐くあんたも相当だと思うけど?
舌先で転がすだけで口には出さない。大人ですから。

空になったグラスをカラカラと揺らして、未だ目の前に広がる海を見る。
一歩踏み込んだら最後、きっと爪先からどろどろに溶けて行くのだろうと、どこまでも深い蒼に吐息を捨てた。


「人魚姫」
「え?」
「知ってる?人魚姫の話」
「ああ、おとぎ話ね。なに、筧その手の可愛い話好きだったの?」
「違うし。そもそも人魚姫は可愛くない」
「何で?」
「だってあれバッドエンドだろ。夢見たいガキには合わないな」
「そう?自分より他人って言う、お優しい心を育てるにはぴったりなんじゃない?」
「ああ、自己犠牲?」
「うわ、可愛くない」


カシャカシャとシェーカーを振る男に眉を寄せてもこいつが何も思わないことくらいわかってる。
全く見た目を裏切るにも程があると眉間に刻まれた皺を消した。


「そういえばこの間あんたの番犬に会ったわ」
「番犬?ただの飼い犬だろ。図体がでかくても頭があれじゃ、な」
「相変わらず手厳しいのね」
「だって俺あいつ好きじゃないし。顔が煩い上に暑苦しい髪がウザイ。何度燃やそうとしたか」
「ちょっと、発想が怖いんだけど」


どれだけ毒を吐けば気が済むのやら。
呆れるあたしに、筧はケロリとした顔で更なる毒を流し込む。


には負けるぜ?」


…にゃろうカクテルぶっかけんぞ。
けれどそんなことをしては最後、この店に入れてもらえなくなるのはわかっているので、
ぴくりと痙攣した指先を誤魔化すように液体の消えたグラスを傾け、氷とともにガリガリと噛み砕く。

可愛いみゆきちゃんに会えなくなるのも、あたし好みのコーヒーが飲めなくなるのもご免だ。


「確かにあの髪は暑苦しいけど、あんた人のこと言えないでしょうが」
「俺はマメに切ってるよ」
「前髪の話だっつーの」


わかってて言ってんなこのちびっこめ。
細めた視線の先で邪魔くさい前髪を揺らした男は、まるでなにも聞こえなかったかのように新しいグラスにシェーカーを傾けた。


「この二つ混ぜたら何色になると思う?」
「紫」
「なんで?」
「青と赤を混ぜたら紫になるってのが一般論」
「一般の枠に入ったことないくせに?」
「…あんた、ほんっとーにムカツクわね」
「それはどーも。で?」


真っ黒い髪の間で漆黒が鈍く光る。
あたしは一度目を伏せて、勢い良く持ち上げた。


「黒。目の前にいる性根の腐った男並みにドス黒い黒」


にっこりと笑んで告げれば、カクテルグラスを挟むようにカウンターに両手をついていた男は
新しい底の深いグラスを取り出して二つのグラスをゆっくりと傾けた。

零れ落ちる二色が交わった刹那、互いを侵す。


「はい、あたしの勝ち」
「じゃあ勝者にはサービスでこのドス黒いカクテルを、」
「いらんわボケ」
「ははっ、それどっかの金髪の真似?似てんじゃん」
「違う上に褒められた気もしないわ」
「なんで?だって得意だろ?」
「…何が?」
「他人のコピー」
「……それ、どういう意味」


コトン、意味もなく持ち続けていたグラスを置いて貫いた漆黒は、深い色を変えることなくただゆるりと細まる。


「閉店後だからってこの店で殺気立つなよ」
「仕方ないでしょ。酔ってるんだもの」
「ザルがなに言ってんだか」
「それで?」

「泡になって消えるのも一つの幸せの形」

「…なに、また人魚姫?」
「昔常連だった綺麗な女がそう言ってた。―お前、あの人に似てるよ」
「顔が?」
「自惚れんな。見た目じゃなくて中身の話。考え方とか仕種とか口調、は違うな。あの人口汚くなかったし」
「最後の一言は聞かなかったことにしてあげる。…昔っていつ?」
「オーナーが現役だった頃」


それはまた、幅が広い。
だけどあたしが初めてこの店に来た時はまだオーナーはカウンターで仕事をしていて、
すぐに常連になったあたしは今日まで一度もこの店であの人を見ていないのだから、答えを出すのなんて簡単だ。

薄く開いた唇から、深く深く、息を吐く。
そうして、目の前に広がる黒い海を胃の中に流し込んだ。


「おいおい。流石にそれ一気はでもキツイと思うけど」
「そうかも。酔った」


痺れた指先からキリキリと骨の軋む音がする。
くらり、鈍くなった思考の中で、黒い顔をした彼女が微笑った。



えない
「あなたを奪う日が来ませんように。…なんて、馬鹿みたい」