「あれ、?こんな時間に何してんの?」


懐かしい声が聞こえた気がした。ぱちりと目を開けて、覚束ない頭で考える。
いつの間に寝ていたんだろう?ベッド代わりのソファーから身を起こし、違う色の天井に首を捻った。
…あぁ違う。今はこの色が正しくて、ここがあたしの居場所。
座っているソファーだって素材からして違うし、比べるまでもなくこっちのが上等だ。
だけどもし目の前に二つのソファーが並んでいたら、あたしは迷うことなくあっちを選んでしまうのだろう。
だってあれはあたしの指定席。あそこに座って一息入れるのが好きだった。


「……ココアでも飲もうかな」


久々の休日、過ぎたことを今更想ったところでどうしようもない。
そんな自分に小さく笑って、でもそれは溜息に近かった。



*



必要最低限の荷物(元から殆ど持ってないけど)を持って静まり返った部屋を後にする。
あたしという人間がこの場所にいた証は全て消した。
お気に入りのカップは随分前に割ってしまったし、数少ない服は鞄の中。特別な日の髪飾りはすでにあたしの物ではない。
そもそも初めから形に残るものは持たないようにしていたから、処分するのは簡単なこと。
足音を消して、気配すら殺して、この家で唯一全員が集まることのできる部屋を通り過ぎる。
振り返るつもりはない。振り返ったところで意味がないと知っているから。

外に繋がる扉を開けようとしたところで、耳慣れた声が届いた。


「あれ、?こんな時間に何してんの?」


振り返れば、ぴょこんと跳ねた髪を押さえて首を傾げるひよこの姿。
少し離れたところで気配が一つ動いていたことには気づいてたので、驚くことなく笑みを浮かべる。


「淳こそどうしたの?昔から誰より早く寝るくせに」
「子供扱いしないでよ。喉渇いて目が覚めただけ」
「そ、ココアでも飲む?今なら特別にあたしが作ってあげるよ」
「ほんとに!?」
「しっ、静かに。みんなが起きちゃう」


慌ててぱちんと口を押さえるひよこを見てくすくすと笑みが零れた。
気配を感じた時から隠していた荷物を置いて、通り過ぎたばかりの部屋へ向かう。
粉末のココアだから誰が作っても大差はない筈なのに、それでもこいつらはあたしが作ったのが一番だと笑うんだ。
自分でできることは自分でやれと昔から言い聞かせてたってのも理由の一つかな。
温まった牛乳の匂いは好きじゃないから自分で飲む時はお湯を沸かすようにしてるけど、今日は特別。
マグカップに粉末と砂糖を入れ、牛乳を鍋に入れて火にかける。数分もすれば頃合いだ。
温めた牛乳を少しずつマグに流し入れ、くるりくるりとスプーンで円を描く。
匂いに釣られたのか隣に来た淳が笑った。大人しく座ってるように言った筈だけど、ひよこに待ては無理だったか。


「はいどーぞ」
「ありがと!」
「座って飲んだら?」


渡した途端口を付ける少年に、行儀が悪いと息を落とす。
ま、言ったところでこいつが気にもしないことくらい長い付き合いでわかってるけど。
隣に立つ黄色い頭は、あたしより幾らか高い位置にある。昔はそんなに変わらなかったのにな。


「…大きくなったよね」
「へ?何だよ突然」
「こーんなに小さかった淳が、あたしより大きくなるなんてびっくりだなって」
「当たり前だろ。女より男のが成長するの」
「見た目だけ成長されてもねー」
「中身だって成長したし!」
「そーやってすぐムキになる。変わってないな」
「…も変わんないよね」
「いつまでも若々しいって?ありがとう」
「そーいうとこ!ほんと変わんない」


むうっと口を尖らせてココアを飲む。美味しい?と訊けば笑顔で頷くんだから、扱いやすくて非常に楽だ。
こいつの純粋さは昔から変わらない。そのことが嬉しくて、小さく声に出して笑った。


「なんか良いことあったの?」
「そうだね、あったかな」
「ふうん?」


合点がいかないのか首を捻るひよこの黄色い毛並みをくしゃりと撫でて、後片付けは自分でするように告げる。
ほんのちょっぴり不満げな声が聞こえたけど、そんなのあたしの知ったこっちゃない。
これからは自分たちの力だけで生きていかなきゃいけないんだよ。とは言わないけれど。


「どっか行くの?」
「散歩。寝れないからさ」
「一人で?だったら俺も…!」
「だーめ。淳はすぐ眠くなるでしょう」
「そうだけどさあ…危ないよ」
「それ、誰に言ってるの?」


にやりと笑う。あんたたちにこの世界を上手に渡り歩く為に必要なあれこれを叩き込んだのは誰だと思ってるんだ。
反論できないのかぐっと押し黙った淳に満足してあたしはくるりと来た道を戻る。


「早く帰って来いよ!」


背中に投げつけられた言葉に、それは無理かな。声に出さず答える。
扉のところに置いておいた小さな荷物を手に、今度こそ別れの一歩を踏み出した。

満天の空とは言えない、ぽつりぽつりと星が囁く夜。
あたしは一度だけ立ち止まって、それでもやっぱり振り返ることはしない。
口の中で囁いたさよならは星たちの声に溶けた。



*



くるりくるりとスプーンで円を描く。砂糖が溶けていくみたいに、あたしの記憶も溶けてしまえば良いのに。
だけどこびり付いた記憶はそう簡単には消えてくれないらしい。
温かな湯気が立つマグカップを手にソファーに座る。……あぁやっぱり、あっちのソファーのが好きだな。
あたしはまた少し笑って、でも今度は溜息にはならなかった。



けはポケットの中にして
「だいすきだったよ。――今もだけど」