ぴちゃん、手のひらを伝って滴り落ちる生温い液体があたしの足元に小さな水溜りを作る。
鼻の奥にこびり付いた臭いに今更酔うこともできなくて、ただ、ひっそりと眉を寄せた。


「いい加減出てきたら?覗き見だなんて趣味が悪い」


一番最後に動かなくなった塊に視線を落したまま声だけを背後に投げる。
星一つ見えない穴のような空の下であたしの視線だけが鋭く光った。


「これ、全部お前ばやったと」
「…あれえ?カズじゃん、久しぶりー」
「質問に答えんね」
「この状況を見てわからないほど頭は弱くないよね?」
「……腐ったやつらの狗ば成り下がりよって」
「ははっイヌって、ひっどいなあ」
「酷いんはお前ん頭やろが」


聞き覚えのある声にゆるりと振り返ればそこに立っていたのはやっぱり見覚えのある姿
気配を殺して立ってたからどこぞの暗殺者かと思ったじゃん。ま、こいつの仕事はそれとは正反対の部類だけどね。

相変わらずの手厳しい言葉に一頻り笑い、その所為で濡れた目じりを拭おうとして、停止


「ねえカズ、なんかタオルとか持ってない?」
「なかよ。あってもお前みたいなトチ狂っちやつには貸さん」
「うわあ、レディーに向かってなんたる言い草…!」
「そげん台詞、ちっとは淑やかさば覚えてから言え」
「ええー十分淑やかじゃん」


顔を顰めた男ににやり。でも、どうやらあたしの笑顔はお気に召さなかったようで目の前の男はぎゅっと眉間に皺を寄せた。


「それに、今更拭っても消えんね」
「……」
「こげん派手に散らかしよって、流石んお前でも捕まるぞ」
「…なあに、心配してくれてるの?」
「忠告たい。の人生や、好きにすれば良か。ばってん、こっちの人間ば手ぇ出すんなら黙っておれん」
「カズは仕事熱心だもんねー。もしかして今も仕事中だったの?」
「真面目に聞け。お前ばよく知っとろうが。そっちの人間がそっちで暴れる分には俺らは動かん」
「へーえ、じゃあこいつらそっちの人間だったんだ?それはそれは…骨の髄まで腐ってるから気づかなかった」
、」
「そんな怖い顔しないでよ。次から気を付けるからさ」
「信用できん」
「あら、どうして?」


口角を上げたまま首を傾げれば、カズは目じりを更に吊り上げた。
……やだなあ。あたし、この顔に弱いんだよ。だってうちの子と似てるんだもん。


「お前が一番嫌っとったやつらん下ば居るたい、今のは腐っとう」

「人の命ばそげな軽か?」

「……。―ここで、それをあたしに訊くの?」
「俺ん知っとうやったらわかっとった筈やね」


真っ直ぐ降り注ぐ視線に、どうやら嘘はつかせてもらえそうにないなと苦笑い。
昔から仕事で裏と表を行き来するあたしが初めてカズと出会ったのはいつだったか、…片手じゃ足りないかもしれないな。
あの頃からいつだってこいつの眼は真っ直ぐだった。その中に映る自分が汚く思えるほどに、

あたしは諦めたように息を落として、だけど一度だけ逃げるように目を伏せた。


「……重いよ。人の命は重い」
「わかっとるなら、」
「―でもね、全員が全員重いわけじゃない。だってそうでしょ?人殺しは世間一般的に悪だけど、誰かにとっては正義だもの」
「屁理屈たい」
「あんたはそう言うと思ったよ。カズは昔から正論しか言わないもんね。絶対に間違わない」
「そげんこつなか」
「そう?もしカズがあたしの立場だったら…、まあ良いや」
「なんね、最後まで言い」
「仮定の話はするだけ無駄。それで、なんだっけ?あぁそうだ。物事には優先順位があるじゃない?人によって違う」

「だから天秤に掛ける。自分にとってどちらが重いか」

「あたしにとって赤の他人の命なんかより、身内の命のが断然重い。だからあたしはあたしの為に奪うの」
「…そんくらい知っとうよ。でもこれはやり過ぎや。それに、そげん大事ならなんで離れたりしよるん?」
「……」
「大事にしちょるやつらと離れてあげな場所でなんばしよっと?」
「知ってどうするの?―なにもできないくせに」
「…、ッ!」


一瞬怯んだ男の肩を壁に押し付けるように押さえて開こうとした口を無理矢理塞ぐ。
すると、ゼロの距離でいつだって鋭い瞳が大きく膨らんで揺れた。


「…」
「……」
「ごめんね?鼠がいたもんだからさ。ま、犬に噛まれたとでも思ってよ」
「……こんの駄犬が。躾ばなってなかね」
「わん」
「可愛気ばなか女」
「カズ好みの女じゃなくてごめんねえ?―それより、そこの鼠は放っておいて良いの?」


カズのペットなんでしょう?告げる代わりに三日月を描けばわかっているとばかりに視線を動かす。
顔色の変らない様子に、そっちこそ可愛気がないと人知れず呟いた。


「昭栄、お前ん持ち場はここじゃなか。さっさと戻り」
「そげんことできません」
「なんね、理由ば言えや」
「こげな場所にカズさん一人置いて行けません!その女も捕まえんとですし…!」
「こいつは関係なか。偶然居合わせただけたい」
「でもカズさんっ!その女どう見ても連続殺人、」
「せからしか!俺が違う言うとろうが!さっさと去ね!」
「……。はい、すんませんっした!」


何か言いたそうに開いた口をぎゅっと結んで、大柄なそいつは自分より小さな男に向かって敬礼をして走り去って行った。
…なあんだ、鼠じゃなくて犬だったのか。どっちにしろペット(正しくは部下)には変わりないだろうけど。


「良いの、刑事さん?」
「…こいつらは俺らが追ってた一件に関わっとった犯罪者たい」
「ふうん。どうせ死ぬ運命だったってわけ」
「……ん考えは俺にはわからん。ばってん、お前は意味もなく人の命ば奪うやつやなか」
「やだなあ、買い被り過ぎだって」
「泣きそうな顔んやつがなに言っとーと」
「!、ッ」
「お前が大嫌いなやつらの下で飼われとるんも意味があるんやろ?」


前髪を撫でるように載せられた手を振り払おうとして、停止
こいつとあたしは住む世界が違い過ぎる。赤黒く染まったこの手で触れたらきっと汚してしまうから、


「一人で動けんくなったらいつでも言わんね。肩書きなんち捨てて手ぇ貸したるけん」


――ほら、また 映り込む  。



ことのない
「だからこそ、絶対に汚したくないの」