「ぁ、ぁあ、」


こんなにあっさり終わるのか。
人は、こんなにあっさり消えてしまうのか。


「う、ぐ……!」


喉の奥から込み上げる不快感に両手で口を覆う。この震えは寒さからじゃない。寧ろ、熱いくらいだ。
歪んだ視界に映り込む残虐な世界から目を逸らしたいのに、逸らしてしまえば一瞬の後に私もあの塊と同じになるのだと、足りない頭が警鐘を鳴らした。



*



!」
「……、なに」
「魘されてたから起こしてあげたのに」
「あーごめん、煩かった?」
「別にー。水飲めば」


ここで持っているコップを差し出さないのがこいつだ。
ま、自分のことは自分でやれと教えているのは他でもないあたしだから不満はないけど。これも教育の賜物ってわけ。

座ったまま寝ていたからか、首を動かすと小気味良い音が数回響いた。
ソファーに腰を下ろした猫と入れ違いに立ち上がり、渇いた喉を潤す為に蛇口を捻ってコップに並々と水を注ぐ。
微かに震える手は額に張り付いた前髪を梳かすことで自然と落ち着きを取り戻した。


「……」


あれは多分、一番古い記憶。
人並みの感情を持ち合わせているというにはまだ何かが足りなかった頃に見た、映像。
あたしが私で心と身体が一致していなくて、…そういや幼児にしては随分と冷めた思考回路じゃなかったか?
自分の身に起こっていることも全部客観的に見てたんだよなー。我ながら可愛くない。


も夢って見るんだ」
「…え、それどういう意味?喧嘩なら買わないよ」
「売るわけないし」


馬鹿にした色を含めるでもなく、かといって呆れるでもなく、あっさりと当然のことのように告げる。
この野良猫は寝てばかりのナマケモノと共通する部分があるけど、表情のレパートリーはこっちのが断然多い。
機嫌が良いと陽気な鼻歌なんか歌ってるし。どこぞの同業者(しかもご近所さん)で遊んだ帰りは大層ご機嫌なのだ。


「横山は夢見ないって」
「あいつはどんな時でも熟睡するからね。夢ってのは浅い眠りの時に見るんだよ」
「夢の中って色ある?」
「さあ、人によるんじゃない?」
「そんなの知ってる。だからに訊いてんだろ」
「んーそだねえ…あったりなかったり、かなー」
「ふーん。あ、じゃあさっきの夢は?」


かちりとぶつかった視線。あの瞳が今、どんな世界を見ているのかあたしにはわからない。
あたしは注いだ水を一気に飲み干してこつん、コップを置く。


「どーだったかな、もう忘れたよ」
「記憶力悪すぎ」
「夢なんてそんなもんでしょ」


そう、忘れてしまうのだ。憶えていたって意味がない。
夢は深層心理がなんちゃらとか聞いたことあるけどだからそれが?って話だし。夢で食事をしてもお腹が膨れることはないんだから。
だから、頭が重く感じるのは起き抜けで正常に働いてないだけでさっき見た映像を引きずってるわけじゃない。


「…あ、」
「あーあ、何やってんの」


軽く頭を振って両手を組んで腕を前に伸ばしたまでは良かったけど、外して横に動かしたのが拙かった。
肘にぶつかったコップは形を崩して床に散らばる。
大丈夫かー と、言葉と態度が一致しない座ったままの兵助はまあ、気にしないことにしよう。


「……あ、」
「なに、切った?」
「なんでもなーい」
「なくないじゃん」


相変わらず耳が良い。一定の範囲内にいればどんなに小さな呟きでも拾われてしまうから困ったものだ。
近づいてきた足音が正面で止まり、じっと眺めていた手を取られる。あたしの視線に合わせるように屈み込んだ少年は掴んだ手を見て眉を寄せた。


「出てる?」
「ちょびっとね。何もしなくてもすぐ止まるよ」


真偽を見極めるようにあたしの顔をじっと見る少年ににやりと笑う。人差し指には申し分程度の赤が浮かび上がっていた。
…さっきのは、こんなに鮮やかじゃなかったな。
もう少し暗い赤だったと、少し前の映像を思い出す。この程度の痛みじゃ頭の重みは消えないらしい。


「心配して損したー」


あっさりと逸らされる瞳と解放された手。あたしの表情から心を読むことなんてこいつにできるわけがないので、臭いで判断したんだろう。
ここで長く生きるやつらはこの臭いに敏感だ。表の世界でいう、「普通」の人では気づかない程度でも気づかなければならない。
そしてこの世界を上手に渡り歩く為には、こっちの世界の「普通」レベルでも駄目なのだ。
だからあたしの鼻が微かに漂う独特の臭いを拾い上げるのは当たり前。そして、こいつは――


「どっか汚すと困るから早く止めなよ。俺は気にしないけど藤代とかに騒がれるぜ」
「それは勘弁」


わざとらしく肩を竦めて指を押さえる。どうやらこの場は兵助が片付けてくれるらしいので、あたしは黙って見てるだけ。


「へーすけの夢って色あるの?」
「……喧嘩なら買わないよ」
「ごめん、ちょっと訊いてみただけ。忘れて」
「ま、いーけど。血止まった?」
「ばっちし」
「じゃあ手洗って後は自分でやって。俺は寝る」
「はいはいおやすみー。ありがとね」
「ん、…あ、そーだ」

「俺の夢がカラフルでも、俺にはモノクロしか見えないからわかんないんじゃん?」



く苦いでした。
「どうせなら、あたしの世界がモノクロだったら良かったのにね」