「そういやって特別な日にいつもそれ付けてるよな」 一瞬、なにを言われたのかわからなくてカップを取り落とす。 がしゃんと音を立てて形を崩したのは、白地に小さな薔薇が描かれたあたしのお気に入り。 あーあ、と大して気にしてなさそうな声が落ちて、ゆるりと顔を上げた。 「亮、ごみ袋持ってきて」 「自分で行けよ」 「あたし今裸足なの。お願い」 「…しょーがねぇな。貸し一つだぞ」 ぶちぶちと文句を言いながらも袋を取りに部屋を出た背中からすぐに視線を外し、無残にも粉々になった破片に手を伸ばす。 大きな破片だけは机の上に乗せてしまおうと思っての行動だったけれど、横から伸びてきた手に阻止された。 「危ないよ」 「誠二こそ、うろついてると怪我するよ」 「俺はちゃんと靴履いてるもん。それよりガムテいるでしょ?持ってきた」 なるほどね。あたしがカップを落とした瞬間に部屋を飛び出して行ったのはこれを取りに行く為か。 どこか自慢げに笑った泣きぼくろの少年は、茶色いテープを千切って輪を作りぺたぺたと床に押し当て始めた。 体力だけが星五つのこの後輩が、こんな風に機転を利かせるとは思わなかった。 …あぁでもガムテープ以外の道具を持ってきてないところからすると褒めるには微妙だな。 「手、切らないようにね」 「だいじょぶだいじょぶ!」 「誠二の大丈夫はあてにならないからなー」 「そんなことないし!は危ないから大人しく座っててよ」 「はいはい」 べりべり、再びガムテープを千切る音。 何が楽しいのか鼻歌交じりに破片を片付けていく子犬(見た目だけは大人)は、小さな破片も見落とさないぞと言わんばかりに目を光らせて床を睨む。 暇になってしまったあたしは、膝の上に置いたままの赤い薔薇に手を伸ばす。 「ねーー」 「んー?」 「その薔薇ってもしかしてすっげぇ大事なもの?」 「…そうだねー。誠二よりは遥かに大事かなー」 「なにそれ!俺だって大事だよね!?」 「それなりに?」 「うわひっでぇ」 いつもながら声がデカイ。床に向かって声が落ちている筈なのに、ソファーに座ってるあたしの耳に一直線で突き刺さる。 あたしは小さく笑って、手の中で咲き誇る薔薇を見つめる。 「は俺のこと嫌いなんだ」 「まさか。あたしはみんなが大好きだよ」 「ほんとに?じゃあ今度の仕事俺も連れてってよ」 「だーめ」 「けーち」 体力だけが星五つの少年は、妙なところで鼻が利く。 犬だから当たり前かもしれないけどね。もう一匹毛並みの違う犬が頭の中で駆け回ったからシッシと手で追い払う。 目の前の大型犬は、普段は空気なんて読もうともしないくせにここぞという時に空気を読む。 今だってほら。あたしが話したがらないとでも思っているのか、違和感なくいつもみたいなじゃれ合いに切り替えた。 …ま、違和感がなくてもあたしにはわかるけど。なんてったって、あたしはこいつの先輩だ。 「俺だってもう働けるんだからね」 「でもまだ13歳になってないでしょ」 「誕生日が遅いだけじゃん」 「それも一つの運だから」 「ちぇー」 「拗ねない拗ねない。そんなせーじくんに、一つだけ教えてあげようか?」 すぐさま顔を上げた子犬ににっこりと笑みを向ける。 自分の正確な年齢や生まれた日付を知っている子は少数で、殆どが初対面の時にあたしが勝手に決めた。 あたしを基準に同い年かその下。あたしより上に見えるやつには出会わなかったから、ここではあたしが最年長。 ついでに言えば初めてあたしに会った日がそいつの誕生日に変わる。 こんな風にこいつらがこの世界で生きる為に必要なあれこれをあたしは何度も決めてきた。 自分で決めても良いよって言ったけど、決めてくれって言われるのが殆どだったから。 ……そんなあたしにも、この世界を上手に渡り歩く為に必要なあれこれを叩き込んでくれた人がいる。 「この薔薇をあたしにくれた人は、世界で唯一あたしが愛した大人だよ」 あたしをこの世界に排出した大人の顔なんて知らないし、知ろうとも思わない。 あたしがあたしになった時にはすでに、大人に気を許してはいけないことを知っていた。 そんな中で偶然出会った大人。 カモにするつもりが逆にしてやられて、それでもいつか寝首を掻いてやるつもりが気づいた時にはあたしの唯一になってたあの人。 それなりの時間を一緒に過ごしたけれど形に残るものは持ってはならないと何一つくれなかった。 そんなあの人が、別れ際にこの薔薇であたしの汚れた髪を飾ってくれたのだ。 「…その人、今どこでなにしてんの?」 「さあ。表舞台に行ったのかはたまた今もこっち側か、どっちにしろあたしには関係ないよ」 「関係ないって……でも、の大切な人なんだろ?」 「誠二も知ってるでしょう。この世界で一度別れてしまったら、二度と生きて会うことはない」 「そうだけど…。ね、その人なんて名前?」 「そんなの聞いてどうすんの。てか最初に一つだけって言った筈なんだけど」 「聞ーくーだーけ!良いじゃん減るもんじゃないし」 きらきら、子犬の瞳の奥に銀河が見える気がする。 どうしたものかと息を落とすと、扉が開く音と不機嫌そうな声が響く。 「んだよ、これ必要ねーじゃん」 「お帰り亮。ガムテも持ってきてくれたんだ」 「あぁ、無駄だったみたいだけどな。つーか馬鹿代、てめぇ持ってるなら持ってるって先に言いやがれ」 「ちょっ三上先輩!破片があるんだから蹴んないでくださいよ!それに俺は藤代…!」 「うっせぇ馬鹿犬、さっさとそれ入れろ」 暴力反対!喚く誠二に煩いと一喝。目の前で繰り広げられる見慣れたやり取りに口を挟むつもりは一切ない。 我関せずでソファーの上から二人を眺めていれば、顰め面の黒髪がずいっと何かを差し出す。 「これも持ってきてくれたの?」 「家ん中だからって裸足でうろつくんじゃねーよ」 「ありがと亮」 「良いからさっさと履け」 紡いだ音は同じ響きなのに、あの人と目の前の男はこんなにも違う。 手の中で咲き誇る赤い薔薇をそっと傍らに置いて、亮が持ってきてくれた靴に手を伸ばす。 この薔薇はあの人がずっと大切にしていたものだと知っている。特別な日には必ず付けていた特別な髪飾り。 明日になればこの薔薇はあの頃より随分と綺麗になったあたしの髪を飾ることだろう。 だって明日は、あの人とあたしが偶然出会った特別な日。 |