ぴちょん、ぴちょん、ぴちょん、
一定のリズムで落下してくる水。外は雨か。天井から落ちてきた水滴が鼻先に一つぶつかった。
一体全体なにがどうしてこうなったのかちっともわかりゃしない。気づけば灯り一つない部屋の中で身動き一つできないあたし。
コンクリートの壁から襲ってくる冷気だけでも嫌気が差してたのに雨漏りまでしてやがるとは随分な物件じゃないの?

音も届かない暗闇の中に拘束して身体のどこか同じ場所に水を落とし続けると人は気が狂う

昔どっかで聞いた話だ。
端から腐った世の中にこれ以上頭の可笑しい輩を増やす趣味のないあたしは実践したことは一度もなければ体験したことも一度もなかった。
…ええ、今となっては過去の話。必然か偶然か、現在進行形でそれに近い体験をしてるわけだし?
五感の内奪われてるのは視覚のみ。これじゃ狂うには足りない。…そこがまたあたしの神経を逆撫でるんだけどね。
いっそ全部奪われた方が楽だと思うのはさっきから吐き気がするくらい熱烈な視線をぶつけられているから。視姦はちょっとねえ?


「ねえ、いい加減話し掛けてくれない?攫っといて放置とか奥手にも程があるでしょーが」


多分これが平和ボケってやつだ。どこぞの可愛いウサギちゃんじゃあるまいし攫われる趣味はない。


「だってこうでもしないと暴れるだろ?」
「平和主義者に向かってなにを言う」


漸く聞こえたノイズ雑じりの声。…なんだろう、聞き覚えがあるようなないような……記憶が迷子だ。
首を傾げようにも首すらも動かないこの状況。打破するにはこの声の主になんとかしてもらう他はないだろう。


「さっすがー!冗談も上手いんだ?」
「なにがどう流石なのかこれっぽっちもわかんないんだけど」
「ああごめんごめん。あんたがちょっと昔の知り合いに似ててさ」
「知り合い?」
「そ。まあそいつもう死んだらしーんだけど」
「…まさか、死んだ筈の知り合いと似てたから興味本位で攫っちゃいました。とか言わないわよね?」
「そのまさかだったらどうする?」
「意識ぶっ飛ぶ勢いで床に頭擦り付けて詫びたら許してあげる。あ、その前にあたしを自由にすんの忘れないように」


視覚聴覚嗅覚触覚味覚。人間が一番頼りにしているのは視覚だ。視覚からの情報量はずば抜けて多い。
だからこそあたしは目を潰された時にどう動くかを叩き込まれている。 いるけど、まずはこの拘束を解かなければ動くも何もないっての。

見えないから実際どうなっているのかはわからないが感覚的には壁に貼り付けられている(気分は標本の蝶)みたいな?
これじゃ縄抜けすらできやしない。まああれものすっごく痛いから好き好んでやりたくはないけど!


「なんか喋ってよ」
「こっちの言い分はスルーしといてよく言うわ」


またしても鼻先に落ちた水に舌を鳴らす。あらら、よく響くこと。
口を動かせるのは幸いだった。音の反響具合からこの場所の面積を計算して…うん、広過ぎず狭過ぎずってとこか。
床を踏んでこの下にまだ階があるのか確かめたかったけれど生憎あたしの爪先はギリギリ地面に届いてる状態だからそれは無理。
脱出法については一旦保留にして今度は悪趣味な誘拐犯について考えよう。
取り敢えずとんだサディストだな。こっちの言葉に反応したくらいだからどうやらあたしの人格を破壊したいわけじゃないみたいだけど。


「それもそっか。…よし、じゃあ今から特別に質問受け付けまーす」


視線は感じる。でもここにはいない。ノイズ雑じりの声がその証拠だ。
だからあたしの耳が今拾っているこの声は肉声じゃなくてスピーカー越しの音。
じゃあ視線は?カメラは…多分ない。音がしない。だけどこの気持ち悪い感覚はじっと観察されているとしか思えない。
―となると、壁の一部に穴が空いてる可能性がある。


「あたしに似てるっていう死んだ女とあんたの関係は?」
「ちょっとした仕事仲間?」
「なにその疑問形」
「仲間ってほど仲良くなかったなーと思って。俺はあいつのこと嫌いじゃなかったけど」
「へーえ、その人に好かれてなかったのね」

「ところで、いい加減その口調疲れない?」


音が止んだ。あたしはにやりと口許を歪ませて人知れず鈍く光る刃を研ぐ。
次の一突きで喉を抉れるように。化けの皮を剥がせるように。


「あんたに執着心があるとは思わなかったわ、吉住」
「……怖い女や思ってたけどゾンビにまでなれるとは…わしびっくり」
「あほか」
「どんなマジック使ったん?あ、やっぱええわ。わし怖いの嫌やし」
「面倒事に巻き込まれたくないだけでしょ。ほんっと相変わらずね」


姿を見せないどころかご丁寧に口調まで変えやがって。どーりで聞き覚えがあるのにすぐに思い出せなかったわけだ。
正体を暴いた途端ガラリと雰囲気をやる気のないそれに変えたこの男、吉住は死ぬ前のが何度か一緒に仕事をしたことのある同業者。
最後に顔を合わせたのはもう十年近く前か。知っているのは吉住という名と外見のみ。この男について持ち合わせている情報は少ない。持ち合わせたくもなかったし。


「まさかあんたが似てるってくらいでうっかり人攫いするほどを気にしてたなんてねーえ」
「美人を嫌いな男はおらんで?」
「そりゃどーも。てかいい加減これ外してよ」
「殴らん?」
「今なら一発で許す」
「おおこわ。ほんなら止めとくわ」
「おい」
「わし痛いの嫌やねん。それにそろそろお迎えの時間やしな」
「…迎え?」
「せや。わしん予想やとむかーしが内緒でお持ち帰りした…なんて名やっけ?」
「その言い方気持ち悪い」


だからとにかく外せっつの。気紛れな沸点は今は随分低いらしい。お湯どころかマグマ沸かせるわ多分。
ぐつぐつと感情を煮込んでいれば布越しに部屋が明るくなり、これ見よがしに響く足音が一つ。 ゆっくりと近づいてくるそれはあたしの前で止まった。


「雨漏りしてたんやなあ…お、水も滴るええ女」
「ぬかせ」


外された目隠し。薄明かりに照らされたとぼけた顔。
瞳を尖らせても目の前の表情はちっとも変わらないのがまた腹立たしい。
にんまりと笑った吉住はあたしの視線を受け流しながらさっきまであたしの視覚を奪っていた布で水を拭う。 有り難いんだかそうじゃないんだか複雑な心境。


「あとはめんどいから王子様に外してもろて」


首の拘束だけを外した後に指先でくるりくるりと鍵の束を回す。にゃろう、丸投げか。
面倒もなにもあんたがこんなに拘束具使わなかったら良かったんでしょーが!
思わず自由になった首を前に押し出して飄々としている男の喉元に噛みつこうとしたらあっさり逃げられた。「うわっ!あっぶなー」
なんか言ってるけど知ったことか。なんてったって今のあたしは瞬間湯沸かし器なんだもの。


「ほんま怖い女やな。嫁の貰い手ないで?」
「ご心配ありがとう。でも端から貰われるつもりもないから」
「なんやつまらん。浮いた話の一つ二つないんか」
「お生憎サマ」
「そうでっか。…じゃあこーゆーんはどう?」


鍵を束ねたリングが貼り付けられて動けないあたしの左手、薬指にぶら下がる。地味に重い。


「うんって言うたらこの先ずっとに付いてもええよ?」


鼻先が触れそうな距離でにんまりと笑う顔。腐れ真正サディストが。
ぷすぷすと間抜けな音を立てて引いて行く熱に比例して気紛れな沸点は一気に上昇。どうやら諦観の境地に達したらしい。



の言葉はわない
「なにそれ、詐欺師の常套句みたい」