感情が爆発しそうになった時、あたしはただ一点のみを見つめて、だけど焦点はどこにも合わせずに世界を遮断する。 あたしと云うちっぽけな存在を隔離するのは簡単だ。ぼやけていく視界の中でじわじわとあたしが萎んで、消える。それだけ。 それは指と指を軽く合わせるだけでぷちっと潰れるような酷く簡単な行為 今まで何度繰り返しただろう。何度あたしを消しただろう。誰にも内緒で消えていくあたしは恨み事一つ残したことがないのだから笑える。 もしかしたら、愛着なんてないのかもしれないなあ。 守りたいものがあるかと訊かれると、返答に困るのだ。 大切な人はいる。あたしは彼らを 家族 と呼んで、名を与え理由を与え傍に置く。 彼らを失うのはこわい。でもきっと、彼らが消えてもあたしは生きていける。それこそ平気な顔で。 「お加減でも悪いんですか?」 萎んだあたしが見る見るうちに膨らんでぼやけた世界が色と温度を取り戻す。 頬杖を付いて窓の外を眺めていたあたしは、愛らしい声に応える為に唇に弧を描いた。 「んーん、考え事してただけよー」 「そうですか…あ、邪魔しちゃってすみません!」 「いやいや全然。碌なこと考えてなかったから。あらら、コーヒーも冷めちゃった」 「新しいのお持ちしますね」 「嬉しい申し出だけど、あの男が素直に淹れてくれるかどうか…」 「大丈夫ですよ、木田さんはとっても優しいですから!それに丁寧な接客でお客様からの評判も良いんですよ」 「……あたしを客だと思ってくれてれば良いんだけどねー」 「え?」 「いやいやなんでも。じゃあお願いしようかな」 「はい、かしこまりました!」 申し訳ないことに一度も口を付けていないカップを下げてくれた可愛い店員さんを見送って再び窓の外へと視線を戻す。 いつの間にこんなに暗くなったんだ?こりゃコーヒーも冷めるわけだ。 言語化しなさい。頭の中で思い描いたことがそのまま他人に伝わる程 世の中都合良くはできていないの。 最初は拙い言葉で良いわ。パズルのピースを埋めていくように、少しずつ形を作っていけば良いから。 ふと頭を過る記憶。あの人と出会ってすぐに言われた言葉。 言葉は知っていた。箱の中で飼われていた時に暇つぶしにと教えてくれた名も顔も思い出せない人のお陰で読み書きもできた。 ――ただ、私には必要なかったから滅多に使わなかっただけで、 幼い私は私の中で全てを終わらせてしまって、それを他人と共有しようとはこれっぽっちも思わなかったのだ。 …全く可愛くない。そんなガキと遭遇したら存在ごと無視だ無視!…や、でも状況に寄るか。現に無視できなかったし。 吐き出した息が見えてはたと気づく。なんか寒くない? よくよく見れば窓が少しだけ開いていて、成程ここから隙間風が入っていたのだと気づく。 手を伸ばして閉めようとするもガタガタと不吉な音を立てるばかりでちっとも言うことを聞きゃしない。にゃろう! 「店を壊すな」 「やーだなあ木田さんってば、建て付けの悪い窓をどうにかしようとしてただけじゃない」 「お前なら壊しかねないだろ」 「人をどんだけ怪力だと思ってるのかしらー?」 「そうとは言ってない。ただ常識に欠けたやつだと思ってるだけだ」 「どっちにしろ失礼なのね。はいはい良いですよーっだ!」 ぷいと顔を背けてもこのお堅い男が気にもしないことくらいわかってる。 てかなんでこいつが来たの?みゆきちゃんはどうしたみゆきちゃんは!あんたカウンターでの接客がメインじゃないの? 無言で恨みがましい視線を送ると黙ってテーブルに湯気の立つカップを置いた男(顔の位置が随分高い)と視線がぶつかる。 「桜井は他のテーブルに行ってもらった」 「なんでさ、別に今混んでないじゃん。…はっ!さてはあたしへの嫌がらせ!?」 「いちいち騒ぐな。わざとらしい演技もいらない」 「しっつれーな。あたしのどこがわざとらしい演技に見えるって?」 「全部だ。今のお前の言葉は全て紙に書いた台詞に聞こえる」 「…あっららー、ほんっとーに失礼よね。あたしも一応客なんだけど?」 丁寧な接客で客からの評判も良い店員なんじゃなかったかしら? 片眉を上げ、すうっと細めた眼でテーブルの真横に立つ男を見上げる。怯むことなく見下ろす姿は相変わらずだ。 「なにがあったか知らないが物騒な空気を店に持ち込むな。営業妨害だ」 落ちてきた言葉にあたしはまた別の意味で眼を細める。まさか気づかれていたなんて。食えないやつ。 「……成程ねー、かっわいーいみゆきちゃんを物騒な女に近づけるわけにはいかないってか。あたしって信用ないのねえ」 「万が一ってこともある。桜井はうちの紅一点で客からの評判も良いんだ」 「大事な大事な看板娘ってわけ。…ま、紅一点のお姫様を大事にする気持ちはわかるけど、あたしも随分と安く見られたものね」 「―馬鹿にしないで。仕事以外で理由もなく一般人に手を出すほど堕ちちゃいないわ」 「それに言っとくけどあたし、あの子のこと気に入ってんのよ?うちのお姫様とは違うタイプの可愛らしさだもの」 「…口説くなよ」 「そう言われると手ぇ出したくなるのよねーえ。…ちょっと、冗談よジョーダン。いちいち睨まないでよ」 「眼つきが悪いのは生まれつきだ」 「あ、もしかして気にしてた?ごめんごめん。でもだいじょぶあんた程度なら可愛いもんよー。あたし凶悪犯みたいな眼つきのやつ知ってるから」 からからと笑って背を叩けば嫌そうに眉を顰められた。酷い。慰めてあげたのに。 これがお客サマに対する態度かと今一度抗議しようと思ったけど、ぶつかった瞳があまりに真っ直ぐだったから言葉を飲み込む。 「なにがあったか興味はないが今は忘れろ。折角のコーヒーが冷める」 「…興味はないのね。まああたしが木田さんの興味の対象外だってことはとっくの昔に知ってたけど」 「持ってほしかったのか?」 「さも意外そうな顔で訊くの止めてくれるかな反応に困るから」 「冗談だ」 「顔に似合わないことしないでよ。…ちょっとなに勝手に砂糖とミルク入れてんの嫌がらせ?」 「文句は飲んでから言え」 「なにこの接客業を営んでる人間とは思えない態度みゆきちゃんが恋しい」 「黙って飲め」 「横暴!」 ぶつくさと文句を言いつつカップに口を付ける。…ちくしょう美味しい。知ってたけど。 思わず眉を寄せれば勝ち誇った笑みを向けられた気がしてイラッとした。本人にそんな気がないのも知ってる。 思考回路が歪んでてドーモスイマセンね! 一人で悔しがりながら頬杖を止めて両手で温かいカップを包む。 「さん、もし良かったら食べてくれませんか?」 「…クッキー?」 「まだまだ修行中で渋沢さんみたいに綺麗で美味しい物は作れないんですけど…」 「てことはこれ、みゆきちゃんが作ったの?」 「はい!…あ、無理にとは言いませんから…!」 「いやいや喜んでいただきますとも。どっかの誰かさんと違ってみゆきちゃんは気配り上手のいい子よねえ」 「はい…?」 「そんなところも可愛いわ。あたしが男だったら口説いてたのに」 きょとんと大きな瞳を丸めた後に真っ赤になった愛らしい女の子を見てにんまり。 長身の男から鋭い視線を向けられたけど気にしない。なにせ生まれつきらしいし? 「そうだ木田さん、注文が入ったのでカウンターに戻って欲しいって筧さんが言ってました」 「わかった。じゃあ後は任せる」 「はい」 「いっやーあ、あたしってそんな信用ないわけ?別に取って食いやしないっての」 「どうかしたんですか?」 「なんでもないよ。ただ、みゆきちゃんが可愛いなって話」 「もうっ、からかうのは止めてくださいよ」 「真っ赤になっちゃってかーわいい」 「さんっ!」 「本音なんだけどなーあ。…あ、このクッキーも美味しいよ。ありがとね」 ぱあっと一瞬で顔いっぱいに広げられた笑顔を直視するにはあまりに眩し過ぎて、あたしはゆっくりと世界を遮断し始める。 ―やっぱり持ち合わせていないのかもしれない。最初から愛着なんてものは持っていなかったんだ。 あたしを慕ってくれているあいつらが知ったらなんて言うかな。怒る?泣く?呆れる?―嗤う? でもね、ひとりぼっちの世界で迷子になるのは慣れてるの。 だって迎えに来てくれる手なんて最初から失かったから |