あ、囲まれてる。随分前から嫌な視線は感じていた。 人混みに紛れて撒いてやろうと思っていた足音は相変わらず付かず離れずの絶妙な位置で響いているんだから笑えない。 首筋がチリチリと痛むような錯覚に、これはもしかしたらもしかするかもしれないなあと他人事のように思う。 あたしはいつあたしが終わっても仕方のないことだと思っている。 この世界で生きているんだから当然だ。自分の命を軽視してるわけでも生を諦めているわけでもない。 その時がきたら足掻く力がある限り抗おうと思っていたし、無理だと思ったら受け入れようとも思っていた。 昔からの考えは今も変わることなくあたしの中に灯っている。 するすると人の波を泳ぎ続けるのは簡単だけれど、いい加減厭きてきた。 それにいい加減あちらさん(俗に言うストーカー)も痺れを切らして手を出してくるだろう。こんな場所でドンパチなんて面倒なことはご免被る。 今日は早く帰る約束だったんだけど…慣れないことはするもんじゃないね。 「さん。少し話をしたいんだけど、時間をもらえるかな?」 「嫌ですって言ったら帰ってくれるんですかねー」 「振られるのは困るなあ。こちらも事情があるんだ」 質の良いスーツを着こなした青年は優しげな表情であたしを見る。なんつーか、おっそろしく整った顔だなこりゃ。 うちにも目の保養は沢山いるけど目の前の男は彼らとは異なるのだ。一つ一つのパーツが綺麗すぎて恐怖すら覚える。 「キミの評判は聞いているよ。その若さで実質トップクラスの実力者なんだからすごいなあ」 「お世辞は結構なんでさっさと本題に入ってくれません?」 「お世辞じゃないさ。多少の誇張はされているかもしれないが大半は事実だろう」 「…ご用件は?」 「仕事を頼みたいんだ…正しくは、勧誘なんだけれど」 「お断りします」 「何故だい?」 あなたの笑顔が気に食わないからだとは口にはせず意識してにこりと笑む。 面と向かって対峙しているのは一人だが向けられる視線は片手じゃ足りない。隠れきれていない気配はわざとか知らないけど、とにかく気に食わない。 「報酬は弾むよ。上限なくキミが望むだけ。金銭以外の物でも我々が必ず手に入れよう」 「それはまた随分とオイシイ話ですね」 「これくらい当然のことさ。確か年齢の変わらない子供たちを養っているんだろう?キミにとっても悪い話じゃないと思うけれど」 「ほんとうに、信じられないくらい良い話ですねえ…夢みたい」 「夢じゃないさ。不安なら頬を抓ってみるかい?」 「いいえ、その必要はありません」 「知ってますか?信じる者は救われるんじゃなくて、巣食われるんですよ」 「……キミは随分と早熟だねえ」 「褒め言葉としてもらっときます」 「なるほど、可愛気がないのはその所為か」 左右対称の造りをした双眸が細まる。刹那、その奥で燻る狂気に気づかないあたしじゃない。 「言い忘れていたけれど、実は今キミが生活している家に我々の仲間が向かっていてね」 「…脅しのつもり?」 「まさか。ただ私は事実を口にしているだけだよ」 「お兄さんモテないでしょ」 「女性に不自由したことはないなあ」 「その顔に救われたね。剥いでみりゃ最悪なのに」 「私の周りは行儀作法が身に付いている女性ばかりだから心配には及ばないさ」 「へーえ、自覚してんだ?尚更性質悪い」 「それはどうもありがとう」 恐ろしく綺麗に微笑んだ男はスーツの内側から携帯を取り出して耳に当てる。 どこに繋がるかなんて想像に容易い。ほんっと最悪。 「ガキ相手に大人気ないんじゃない?」 「私は性質が悪いんだろう?それにキミの実力を知っていればこれくらい当然のことだ」 「……あの子たちになにかしたらあんた死ぬよ」 「それは困るなあ。でも、その時にはキミの大事な子供たちも死んでいるだろうねえ」 「……、…」 楽しそうに転がる音は顔と同じく綺麗で、だけど酷く耳障りだ。 さて、どうしようか。噛み締めた奥歯はとうに悲鳴を上げ、神経を刺激する痛みが脳を刺す。 携帯を耳に押し当てたままの男は繋がっているだろう電話の相手に未だ命令を下すことはない。…その余裕そうな笑みがムカツク。 あたしはゆっくりと瞼を下ろして、それから両手で耳を塞いだ。 「おやおや、現実逃避かい?」 「―知ってる?耳を塞ぐとね、命の音が聞こえるの」 耳の中でごうごうと血の流れが響く。ああ、今日もあたしは生きている。 そう、生きているんだ。どこも怪我をしていない五体満足なあたしの身体はいくらだって暴れられる。 だから目の前で微笑む男も、周りに潜むやつらも、あたしが生に縋りつかなければ道連れにすることはできるだろう。 …だけど、駄目だ。だってあたしは一人しかいない。 ここにいるやつらを地面に押し潰してもスーツの男が手にした携帯の先にいるやつらには手が届かない。 この恐ろしく整った顔立ちの男はあたしが動けばすぐに電話口に向かって命令を下すだろう。そんなのわかりきっている。 「さあ、どうする?」 天使の顔をした悪魔は甘やかに微笑う。 てかあたしに言わせれば天使も悪魔も、ついでに死神も全部一緒だ。 一つ、息が落ちる。それは酷く重くて、深くて、多くの感情を含んでいた。 「わかりました。…ただし、条件があります」 * 「―では、そういうことで」 にっこりと微笑む見た目だけは最上級の青年に頷いて応える。 話は済んだんだからさっさと帰ってくれ。てかあたしは帰りたい。 「一応言っておくが、逃げようなんて考えは捨てておくように」 「ハイハイ」 「我々はキミがどこにいようが必ず迎えに行くよ…それこそ、地の果てまでも」 「……シツコイ男は嫌われるって言いますよねー」 「すでに嫌っているんだから問題ないだろう?」 「そっすか」 人のこと言える立場じゃないけどこいつほんっとに性格歪みまくってるな。 この男の上に立つやつらはきっともっと歪んでるんだろう。想像するだけで吐きそう。 「それじゃあ、次は約束の日に会おう」 綺麗な笑みを残して立ち去った男に従うように周囲に潜んでいた気配も遠ざかる。 執行猶予は数年。あっという間だ。この選択を未来のあたしは悔やむだろうか。…いや、これが最善だったとあたしならわかるだろう。 ―だってあたしは、救いなんてどこにも落ちていないのを知っている。 ぎちり 噛み締めた奥歯が悲鳴を上げる。複雑に絡み合った感情は逃げることができずにただあたしの中で暴れるだけ 「お嬢チャン、こーんなとこでなにしてんだあ?」 「……。――遊んでくれるの?」 ゆるりと振り向く、綺麗に歪んだ笑顔。 あたしに巣食う赤黒い狂気が瞳の奥でくゆるのが見えた気がした。 |