もう疲れた、くたくただ。 崩れ落ちるようにソファーに身体を預けると、頭の上に声が降る。 ついさっきまで延々と聞かされていた声に名前を呼ばれても顔を上げたいとは思えない。 寝たふりをしてみても、昔からの付き合いであたしがお休み三秒じゃないことはばれているので無駄に終わる。 あぁもう、少しくらい休ませてくれ。小言ならまた明日聞くから。 「。そんなとこで寝たら風邪引くよ」 「そんな柔じゃないからだいじょーぶ」 「それは知ってるけど、疲れてるんでしょ?」 「誰の所為でこうなったと」 「さあ、自業自得じゃない?」 可愛い顔の男と一緒にあたしをぎゅうぎゅうに絞ったのはどこのどいつだったっけ? ソファーにうつ伏せたままなのでそんな非難もくぐもってしまう。 すると、思いの外強い力で腕を引かれてあたしの身体がふわりと浮いた。 「背筋が鍛えられてるー」 「馬鹿言ってないでちゃんと起きて」 「あのさ郭、昔から思ってたけどお姉さんを馬鹿呼ばわりはないと思う」 「その台詞、一度は姉らしい…というか、年上らしいことしてから言ってくれる?」 「その言い方だとあたしが昔っから年上らしくないないみたいじゃない」 「間違ってないと思うけど」 「いーや、間違ってる。言っとくけどあたし、郭がまだこーんなちっちゃい時から知ってるんだからね」 深くソファーに座り直して、親指と人差し指の間に1cmくらいの隙間を作る。 あたしの腕から手を離した切れ長の目の男は、呆れたように溜息を一つ。 「それって母親の腹の中の話?」 「うん。郭はあたしがお腹を痛めて産んだ子だから」 「常識的に考えて不可能」 「相変わらず頭固いねー」 「……ねぇ、」 「ん?」 冗談の通じない綺麗な顔の男から目を逸らし、ソファーの上に両足を乗せて中身の詰まった頭を膝の上に置く。 あ、なんか寝れそう。今ならお休み三秒も夢じゃないかもしれない。 ――でも、疲れ果てたあたしをこのまま休ませてくれるほど、神様ってやつはお優しくはないらしい。 「母親って言うくらいなら、名前で呼んでよ」 「んー」 「んー、じゃなくて。ほら、呼んでみて」 「郭」 「それは名字でしょ。俺が言ってるのは下の名前」 「あー……なんだっけ?」 「…、それ本気で言ってる?」 「嘘うそ。うーそー。英士でしょ、えーいーし。これで満足?」 顔を膝に埋めているあたしには英士がどんな顔をしているのかなんてわからないけど、それでも、なんとなく後ろの空気がやわらかく揺れた気がした。 あぁ、きっと笑ったんだ。こいつの綺麗な笑みは、昔から空間を支配するから――。 それにしても、下の名前で呼んでほしいなんて可愛いとこもあるもんだ。 ここにいるやつらのことを人によって名前で呼んだり名字で呼んだりしてるのは差別でも何でもない。 ただ、あの頃のあたしたちの中で名字なんて大層な物を持ってるやつは少なかったから、あたしが名字で呼んでるのは最初から名字を持っていた子たちだけ。 他のやつら(大半だけど)は戸籍やら何やらを作る際に適当に決めただけだし。 死ぬ前のあたしが口にしていた呼び名は死んだ後のあたしにもしっかりと定着していて、久しぶりに声に出してもぴたりと嵌る響きなのだ。 「もしかしてえーしくんは、ちっちゃい頃からあたしに名前で呼んでほしかったの?」 今更呼び方一つ変えたところで、あたしとこいつらの関係が変わることはない。 記憶の中から引っ張り出した小さな少年は、いつだって不平不満を口にせず教えたことを淡々とこなしていた。 こいつが初めて笑ったのっていつだったっけ? 答えに辿り着く前に響いた声が、強制的にあたしの思考を中断させる。 「そうだよ。俺はいつだっての一番近くにいたかったから」 「……それはそれは、あたしも随分懐かれてたんだね」 知らなかったの?―と、肩に触れた温度と僅かな重みに瞼を閉じる。 無抵抗なあたしの身体は、まるで吸い寄せられるように温かな腕の中へ。 心地良い温度と命の音に少しずつ意識が遠ざかる。 「突然いなくなったが、まさかあんなことになってるなんて思ってもいなかったよ」 「過ぎたことはもういーよ」 「…そうだね。でも、二度目はないから」 「肝に銘じておきます」 が俺たちの前から姿を消した理由を知って、絶対に連れ戻そうって決めたんだ。 その時かな、自分の気持ちに気づいたの。姉のように慕ってたに、それ以上の想いを抱いてたんだって。 ……本当は俺の手でを連れ戻したかったけど、過ぎたことだからもう良いよね。 「無事で良かった」 ほんの少し前まで言葉という凶器であたしをぎゅうぎゅうに締めつけていた口が紡ぐ音とは思えない。 ていうか、やっぱりあたしのこと姉だと思ってたんじゃん。 でもきっと英士はあたしの片足が夢の世界へ誘われていることに気づいている筈だから、これはあたしに聞かせたいというよりは独り言に近いんだろう。 だからあたしは遠慮なく聞き流して夢の世界へともう片方の足を突っ込む。 「もう絶対離さないから、覚悟しててね」 ……最後のは、聞かなかったことにしとこうか。 |